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人生のリレー

坂村真民先生の詩にこのようにあります。


あとからくる者のために
苦労をするのだ 我慢をするのだ
田を耕し 種を用意しておくのだ

あとからくる者のために
しんみんよお前は 詩を書いておくのだ

あとからくる者のために
山を川を海を きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために
みんなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々自分でできる何かをしておくのだ


私たちの人生の長さは人それぞれ違いますが、どんな人生も必ず途中で終わりを迎えます。

ここがゴールなどというものはありません。

私たちに出来ることは、何億年と続く生命のリレーの、自らに与えられた一区間、

この人生をどのように走るか、走ったかということに尽きます。

リレー走者が心掛けることは何か。

それは、バトンを手渡す者たちの為に何が出来るかということ。それに尽きるのです。


自分から人に何かしてあげなさい、などという教えを聞くと、

なるほど確かにそれは善いことには違いないが、こっちが損じゃありませんか、と思うのが人の心というものです。

しかし、そう思うのは教えの本当の意味が分かっていないからであります。


人に親切にするということは、自分自身が嬉しい。

進んで人のお役に立とうとすることを、自らの生命が求めている。

そのことを私たちに気付かせようにするのが、教えの根本なのです。


人に親切にし、進んで仕事をしようとするとき、自分の中から大変よいものが湧き出る。

それが嬉しさとなり、気持ち良さとなり、幸せとなるのです。


生命のバトンを繋ぐ一走者として、自分に何が出来るのか。

いつからでも遅くはない。そこにこそ、本当の幸せがあるのです。

神様の御用

『神を使うて、神に使われることを知らず』

世間一般的に、信心とは「自分が神様を信じること」と考えられています。

かく言う私も、長い間そのように考えておりましたので、大変よく分かるのですが、

そのような信心をする人は、

「神様がいるか、いないか。自分がどれだけ神様を信じることができるか」

ということが信心の問題となります。


しかし、そのような考えの人が「神様を信じる」と言ったところで、

自分が神様を信じるのでありますから、

神様というのは自己の神認識の程度を出るものではなく、

信心の中身も自己の性格や考えによって偏ったものとなります。

また神様に向かって深々と頭を下げているようであっても、

それは形だけのことであって、実際には自分の意向が主となり、

自分の願いに合わせて神様に働いてもらおうとしているのが信心の中身なのです。


そのようにして、自分にとって神様が必要な時には、「神様、神様」と言って近づき、

感涙にむせぶこともありますが、必要でない時には忘れてしまうか、あっさりと見切りをつける。

挙げ句の果てには神様に責任を押し付けたりもする。


『神を使うて、神に使われることを知らず』という教えは、

そのような自分本位の信心をする者には天罰が当たるなどということではなく、

そのような信心では本当の意味でその人が助かって行かない、ということを嘆かれた教えであろうかと思うのです。


これまで神様を使うばかりであったならば、

これからは神様に使われるような自分にならせて頂く。

神様に使われることを、このお道では「御用」と言います。


教会で御祈念をし、神様に願ったならば、わが身に神様を頂いて家庭や職場に御用に行かせて頂く。

家庭や職場に難儀があれば、その難儀のある家庭や職場の中に入り込んで、

わが身を使って人を助ける神様の御用に立たせて頂くのです。

これからは人を助ける神様の御用をさせて頂くと心に決めて、自分の生活を通して、

神様の生きておられる働きをさせて頂くことが真の信心なのです。

心配するな

一休禅師のエピソードに、このようなお話があります。

一休禅師は八十七歳という当時としては非常に高齢で亡くなられましたが、

その亡くなる直前に弟子たちに、

「この先、本当に困ることがあったら、これを開けなさい」

と一通の封書を残されたそうです。


数年後、寺に大変な問題が持ち上り、どうしようもないので、

弟子たちは集まって、その封書を開いてみると、なんとそこには、

 『心配するな

 大丈夫

 なんとかなる』

とだけ書かれていました。

とたんに弟子たち一同、大笑いの内に落ちつきと明るさを取戻し、

難しい問題を解決できた、という話です。

本当の話かどうかはさておき、一休禅師らしいユーモアたっぷりのお話であります。


人生には色々なことが起こります。嬉しいことも、辛いことも。

しかし、そのすべてが神様からのお差し向け、言わばプレゼントなのです。

途中で何があっても、後から振り返ってみると、それは、それでよかったこと。

いのちの糧となっていくのです。

お道の教えに、このようにあります。

『心配は体に毒、神様にご無礼である。心配する心を神様に預けて、信心する心になるがよい。』

何かできる時には、そのことを精一杯させて頂けばよいですが、

どうにもならないことを自分の力でどうにかしようと思うと、解決がつかず、ますます苦しくなっていくものです。

ですから、どうにもならないことはまな板の上の鯉のように自分を神様にすべて投げ出し、お任せする。

心配する心は神様に預けてしまいなさい、と教えているのです

そのように神様に任せきり、凝り固まった考えから放れることができれば、

物事は自然と好転していくものです。

心配するな、大丈夫、なんとかなる。

このことを忘れてはなりません。

心を込めて

「話すこと」と「聞くこと」とは、まるで違うことのように思われるのですが、

まことに通じるところがあります。

赤ん坊は生まれてすぐに話すことは出来ません。

声をあげて泣いてはおりますが、何を言っているのかは分からない。

母親だけは不思議とそれが何を言おうとしているのか分かるようですが、

それでも赤ん坊が話しているとは言えないでしょう。

それがいつの間にやら、皆にも分かることを話すようになる。

なぜ話せるようになるのかと言えば、それは周囲の人の話をしっかりと聞いているからなのです。


人の話を聞いて、だんだんと分かるようになり、それで、皆にも分かることを言うようになる。

聞くことなくして、話すことなど出来はしません。

耳の聞こえない方であっても、手や唇で話される。

それも同じことであって、耳で聞く代わりに目や体の一部から、

この天地自然、人の心を受け取っているのです。

その受け取るということがなければ、

自分の思いを表現でもって人に伝えることなど出来はしません。


ですから人が話をする時には、日頃から心を込めて聞いて、

相手の心を受け取っていなければなりません。

ただぼんやりと耳を向けている、心を込めて聞いていないようであっては、

自分が話すことも自分勝手でとりとめのない話しか出来ず、

その結果、誰も自分の話を聞いてくれないようになる。これは当然のことなのです。


このお道は、「話を聞いて助かる道」と言います。

聞くという行為の中に徳が備わっていて、そこに神様がお働き下さるのです。

愚痴や不足を聞くのは誰でも嫌なことでしょうが、

その時こそ相手の本音が出ているわけですから、身を入れて本気で聞かせて頂き、

その場限りで解消してしまいさえすれば、「愚痴」と名をつけるまでもなく、

それは有り難い「打ち明け話」となるのです。 

聞き手が「うるさい、くだらない、聞きたくもない」

とはねつけた瞬間にその話には「愚痴」という名がつくのです。

聞くことに、どれだけ心を込めて聞くか。祈りを込めて聞くか。

ここが肝心であります。

良いもの、悪いもの

雨が降ると「天気が悪い」と言います。

ところが、それならずっと雨が降らなければ良い天気かと言えば、

それも困ることがあって「雨よ降れ」と言う。

そうして雨が降れば「良い雨だ」と言う。


私たちの「良い」「悪い」というのは、雨そのものを言うのではありません。

降って欲しい時に降る雨は「良い」ものですし、降って欲しくない時に降る雨は「悪い」ものです。 

どこに良い悪いがあるかと言うと雨そのものではなく、関係にあるのです。

生きている者と雨との関係がどのようなものか。そこに、良い悪いが生まれてくるのです。

雨だけではありません。人もまたしかりです。

自分については、いつも同じ自分だと考える。

他の人については、あの人はどのような人間で、良いとか悪いと決めつけてしまいがちなのですが、

本当はそうではありません。

自分のことで考えてみても、いつも同じ自分ではないはずです。

会う人との関係によって自分も変わるのです。

先生と会う時、友達と会う時、子供と会う時。

親しい人と会う時と嫌いな人と会う時とでは、決して同じ自分ではないはずです。

雨に対して良い悪いと、雨だけを見て決めつけているのと同じように、

人に対しても、その人だけを見て良い悪いを決めつけているのです。

たとえ雨が降り続いても、その雨との関係を良くできさえすれば、

「困った雨だ」とか「悪い雨だ」と言わずに済むようになります。

人に対しても同じように、自分が悪い、相手が悪い、という視点から離れなくてはなりません。

良いとか悪いとかいうことは程度の問題であり、

良いと言えば皆が良いとも言えるし、悪いと言えば皆が悪いとも言える。

人間を知れば知るほど、そう単純に良し悪しなど言えないことに気付く筈です。


白と黒、善と悪の間に人間があります。

そして、そのどちらにもいくことが出来るのです。

ですから人と人、人とものとの「関係」を願いましょう。

その関係が少しでも良くなるように、強くなるように願い、

出来る限りのことをさせて頂くことが肝心であります。
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