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帰る旅

『神様を信じる者は、何をするにしても遊ばせていただくのである。

広前の奉仕で遊ばせていただき、商売でも農業でも遊ばせていただいているのである。

みな天地の間に、うれしく、ありがたく遊ばせていただいているのである。』


作家の高見順さんの亡くなる直前の作品に、『帰る旅』という詩があります。

帰れるから旅は楽しいのであり
旅の寂しさを楽しめるのも
我が家にいつかは戻れるからである
だから駅前のしょっからいラーメンがうまかったり
どこにもあるコケシの店をのぞいて
おみやげを探したりする
この旅は自然へ帰る旅である
帰るところのある旅だから
楽しくなくてはならないのだ
もうじき土に戻れるのだ
おみやげを買わなくていいか(以下略)
 

遠くへ旅行に行くのは楽しいものです。

見慣れぬ景色や味付けの違う料理、見ず知らずの人との出逢いというのは、

幾つになってもワクワクしますよね。

しかし、そういった感動が続くのもせいぜい二、三日のことであって、

誰しも長旅が続くと、やっぱり「我が家」が恋しくなるものです。

高見順さんは死の病床にあって、自らの人生を「帰る旅」だと言いました。

そしてその旅は、「我が家」である自然に帰る旅なのだから、

精一杯楽しまなくちゃ。お土産も買わなくちゃ、と。

夏休みの旅行同様、人生という旅の目的も、実はうれしく、楽しく、ありがたく遊ばせていただくことなのです。

せっかく来た旅なのですから、精一杯楽しまなくちゃもったいない。

もちろん、お土産も忘れてはなりませんね。

お世話になった人々に、立ち去るときにそっと置き土産を遺してゆくのです。

後世の人の生き方に何か良い影響を与えるものが遺せたのだとすれば、

この旅はもっと素晴らしいものになるでしょう。

仕え合う

『神のおかげで生きていられる人間は、日々神のご用を勤めなければならない。

日々勤める仕事は信心の行であるから、仕事をありがたく勤めれば、日々ありがたいおかげが受けられる』


中国・唐の時代に百丈(ひゃくじょう)という禅の高僧がおられました。

その教えで特筆すべきは、出家者にとって一番重要な修行を「労働」としたところにあります。

禅が頭の中で考えるだけのものにならないようにと、毎日の修行として、坐禅だけではなく労働を課したのです。

今でこそ、そのような労働は「作務(さむ)」として一般的ですが、

当時はそれまでの戒律に真っ向から相対するものでしたから、まさに命懸けです。

しかし、百丈はこの労働を自ら実践し続けました。

百丈にとってこの日々の労働とは、食べるための手段ではなく仏の務めを作(な)すものでした。

そのため八十歳を過ぎてもやめようとしません。

やがて弟子たちは師匠の体を案じて「お休みになったらどうですか」と勧めましたが

一向に辞めようとしない。そこで弟子たちは苦肉の策として、百丈の仕事道具であった農具を隠してしまったのです。

道具を隠されて働くことができない百丈は、その日は部屋に戻りました。

弟子たちは「やれやれ、これでよかった」と安心していましたら、今度は食事をしないと言い出すのです。

そして、驚き戸惑う弟子たちに向かい、

「一日作さざれば一日食らわず」と。

一日仏のすべき務めができなけば、

私は食べろと言われても頂戴できないのだ、と諭したのです。

ふつう信心といえば、宮、寺、お堂など特別な場所で、

特別な作法をもって特別なことをすることのように思われがちですが、実はそうではないのです。 

会社でのお勤めや、家事や育児といった日常の仕事の中にこそ信心の行がある。

日本では昔から、「幸せ」という字を、仕え合う(「仕合せ」)と書きました。

神仏に仕え、人に仕えようとする心を抜きにしては、

自分の幸せなど有り得ないということを教えているのです。

真一心の心

『神は宮社(みややしろ)に鎮まり納まっておられるのではない。

 真一心の心に神がおられて、おかげになるのである。』

中村久子さんは、明治三十年に生まれ、

難病による両手両足の切断という重い障害を抱えながらも、

七十二年の人生をたくましく生き抜いた人物として知られています。

生活苦のため自ら見世物小屋に入り、「だるま娘」として二十三年間も好奇の眼にさらされながらも、

彼女は独学で読み書きを覚え、本を読んで教養を身に付け、結婚に出産、そして育児までをも立派にこなしました。

両手がなくとも、料理も作り、裁縫までして生計を立てたのです。

「奇跡の人」として知られるかのヘレン・ケラーが来日して彼女に初めて面会した際、

「私より不幸な人、そして偉大な人」と涙を流しながら言ったというエピソードはあまりに有名です。

晩年は全国を講演して回り、障害者をはじめ病に苦しむ多くの人々に勇気を与え、励まし、

「いのち、ありがとう」を口癖に、常に感謝の心を忘れませんでした。


しかし、そんな彼女にもただ一つだけ両手が無くて残念なことがあったそうです。

それは、合掌ができないということでした。

合掌と言えば、両手を合わせて頭を下げる。

形の上ではただそれだけのことでありますが、単に社交で頭を下げる低頭や、

手を握り合う握手とは違い、相手の地位や身分を尊敬するのではありません。 

そこに神を拝む心があってはじめて合掌となるのです。

「どうぞ、あなたの中の神がお働き下さり、幸せな人生を歩んで行けますように」

と念じて両手を合わせる。それが合掌するということなのです。

中村久子さんはきっと、実際には合掌は出来なくとも、

周囲の人々に対し心の中でいつも合掌を捧げられておられたに違いありません。

彼女に助けられた人々の存在こそが、そこに神がお働きになられた何よりもの証なのですから。

生かされ生きる一人である

平成二十二年に百一歳で亡くなられた臨済宗の禅僧、松原泰道師は、

百歳を過ぎてからも執筆や講演を精力的にこなし、

亡くなる三日前まで「生涯現役 臨終定年」を実践された現代の名僧として知られています。

その松原禅師がご在世中の話ですが、ある老婦人が禅師に対し、このように言いました。

「私は電車に乗って外出する際、なるべくラッシュ時を避けるようにしています。

 若い方が席を譲って下さるのはありがたいのですが、ご迷惑をおかけすることになるので…」と。

なんとも心優しい老婦人の言葉でありますが、それに対し禅師は、

「そんな気配りはやめた方がいいですね」

と冷ややかにつっぱねます。続けて、

「そのような時、あなたは心の奥底から『ありがとうございます』と感謝の思いをこめて

 お礼をそのお方に言って腰をおかけなさい。

 好意を素直に頂くことが、礼儀ではないでしょうか」

このように諭されたそうであります。

私たちは幼い頃から、学校や社会で「他人には迷惑をかけるな」と教えられて育ってきました。

しかしそれが不可能な事実であるということは、よくよく考えてみれば分かります。

不完全で欠点があるのが人間であり、そうした人間どうしが集まって、

互いに支え合い、迷惑をかけ合い、生活しているのが私たちの社会であります。

それならば、「私は他人には迷惑をかけません」と

肩肘を張るよりも、「誰かに迷惑をかけずには生きられない私である」と、

謙虚さと感謝の気持ちを持つべきではないでしょうか。

「人間は決して一人では生きられない、人間は他に迷惑をかけなければ生きられない、弱い存在である」

ということを、大人は子に伝えるべきなのです。

個人の力には限界があることを知らなければ、行き詰まりを感じた時に死を選ぶしかありません。


気配りよりも大切なこと。それは、この天地の中で他に支えされ、

他に迷惑もかけ、生かされ生きる一人であるという事実に、感謝の思いを向けることなのです。

人の本質

『人が人を助けるのが人間である。
人間は、子供がころんでいるのを見て、
すぐに起こしてやり、また水に落ちているのを
見て、すぐに引き上げてやることができる。
人間は万物の霊長であるから、自分の思うように働き、
人を助けることができるのは、ありがたいことではないか。』

中国・清の第五代皇帝の雍正(ようせい)は、

国と人民のために寝食を惜しんで働いたことから、中国史上最も勤勉な皇帝とも言われています。

その雍正が学問をするうえで最も大切にしたことが、「自得(じとく)」という言葉でありました。

自得とは「自己を得る」。つまり、「自らを知る」ということですが、

雍正は自得園という別邸まで建てて、自らを知ることに真剣に取り組んだそうです。

自得の大切さは、なにも東洋だけの考えではありません。

ソクラテスも「汝、自らを知れ」。

ゲーテも「人生は自分探しの旅だ」と言っています。

考えてもみますと、私たちは学ぶことにせよ、働くことにせよ、

名を成そう、人から賞賛されよう、とばかり考え躍起になるものですが、

そこに執着するあまり、自己というものを見失いがちであります。


しかし誤ってはならないことは、

人は社会的に何かを成し遂げたから偉いのではなく、

その人に与えられている生命自体が尊いのです。

自らを知るとは、その自らの生命に託された「願い」を知るということ。

何をするかという手段ではなく、人間とは何かという根本を知ることです。


『人が人を助けるのが人間である』ということは、

私たちが学ぶこと、働くこと、

活動すべての中心に「人を助ける」ということを置けば間違い無いという教えなのですね。

つまり、学ぶということは、自らを高めて人の役に立つために学ぶのであり、

働くということも、自らの身体、能力を用いて人が助かることをするために働くということになります。

自得とはこのことを悟り、実行して行くことであり、

自得した者が成す仕事とは、その職業が何であれ、自他ともに幸せをもたらす仕事となるのです。
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