天地の心
『何事にも我を出すな。
…天地の心になっておかげを受けよ』
我というものは、一つの事にこびりついて動かぬことを言います。
物事に対して、こうでなければならない。こうあるべきだ。
そのような自分勝手なこだわりから、心配や不足の心が出てまいります。
あの人はこうだ、こうあるべきだ、と決めつけてしまう心があるために、
その人のことで色々と困ったり腹を立てたりしなければならなくなります。
もしも、それがもっと広い心にならせて頂ければ、相手が何か自分にとって困ることをしたとしても、
何故そういうことをしたのだろうか、何か訳があるに違いないと、
その周囲の事情や、相手の性格などを考えて、十分に察することも出来るでしょう。
一人の人間を相手どって、ああだこうだと責めないで済むようになるでしょう。
そのようになってはじめて、人間関係で助かりを得たと言えるのです。
では、どうすれば「我」を出さないようになれるのか。ここが肝心ですね。
そもそも「我」とは、自分の力で生きているのだと勘違いするところから生まれてくるものです。
自分の力や努力のおかげでここまで来た。欲しいものを手に入れた。周囲の役にも立っている…。
「我」が無い人間はいませんが、一生懸命頑張る人ほど、「我」も強くなりやすいのです。
さらに「我」のタチの悪いところは、その性質上、外からは決して壊せないのです。
それが故に、人から諭されようが、責められようが、かえって一層「我」を募らすことになるばかりなのです。
そのような強力な「我」というものにも唯一の弱点があります。
それは「詫びる」ということ。自らの「我」を詫びる時、不思議と消えるのです。
ですから、信心とは、自らの「我」を詫びていくことと言っても過言ではありません。
そのために教えを聞くのです。
山を流れる川の水のように、途中の岩や木の根にぶつかりながらも、さらさらと流れていく。
そのような何事にもとらわれない在り方こそ、私たちの求めてやまぬ生き方なのです。
…天地の心になっておかげを受けよ』
我というものは、一つの事にこびりついて動かぬことを言います。
物事に対して、こうでなければならない。こうあるべきだ。
そのような自分勝手なこだわりから、心配や不足の心が出てまいります。
あの人はこうだ、こうあるべきだ、と決めつけてしまう心があるために、
その人のことで色々と困ったり腹を立てたりしなければならなくなります。
もしも、それがもっと広い心にならせて頂ければ、相手が何か自分にとって困ることをしたとしても、
何故そういうことをしたのだろうか、何か訳があるに違いないと、
その周囲の事情や、相手の性格などを考えて、十分に察することも出来るでしょう。
一人の人間を相手どって、ああだこうだと責めないで済むようになるでしょう。
そのようになってはじめて、人間関係で助かりを得たと言えるのです。
では、どうすれば「我」を出さないようになれるのか。ここが肝心ですね。
そもそも「我」とは、自分の力で生きているのだと勘違いするところから生まれてくるものです。
自分の力や努力のおかげでここまで来た。欲しいものを手に入れた。周囲の役にも立っている…。
「我」が無い人間はいませんが、一生懸命頑張る人ほど、「我」も強くなりやすいのです。
さらに「我」のタチの悪いところは、その性質上、外からは決して壊せないのです。
それが故に、人から諭されようが、責められようが、かえって一層「我」を募らすことになるばかりなのです。
そのような強力な「我」というものにも唯一の弱点があります。
それは「詫びる」ということ。自らの「我」を詫びる時、不思議と消えるのです。
ですから、信心とは、自らの「我」を詫びていくことと言っても過言ではありません。
そのために教えを聞くのです。
山を流れる川の水のように、途中の岩や木の根にぶつかりながらも、さらさらと流れていく。
そのような何事にもとらわれない在り方こそ、私たちの求めてやまぬ生き方なのです。
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