ああ、そうか
白隠禅師に、このような逸話があります。
ある檀家の娘が出産をしたのですが、娘の父親が一体誰の子かと問い詰めましたところ、
娘は頑として男の名前を口にしません。怒った父親がなおも激しく問い詰めたところ、
娘は恐れのあまり、咄嗟に「白隠禅師です」と嘘をついてしまうのです。
父親が日ごろから敬愛している白隠の子であれば、きっと許してくれるだろうという娘の浅知恵でした。
しかし、娘の父親は白隠のところに駆けこむや、
「この生グサ坊主!お前の子だ、受けとれ」と怒鳴りながら、赤ん坊を突き出しました。
もちろん白隠は、身に覚えのないことです。
ところが何の言い訳もせず、「ああ、そうか」と赤子を受けとりました。
この出来事により、白隠の名声は地に堕ち、近所の大人たちから罵倒され、
子供たちからは石を投げつけられ、大勢の弟子たちが去って行きました、
それにもかかわらず悠然ともらい乳をして歩き、赤子を親身になって育てる白隠の姿に、
娘もこらえきれなくなり、ついに父親に本当のことを白状しました。
驚いた父親は、すぐに白隠に非礼を詫び、赤子を返してほしいと恐る恐る申し出ました。
すると、白隠は怒ることなく、
「ああ、そうか」とだけ言い、赤子を返したそうです。
このことがあってから、以前にも増して信者や弟子が白隠のもとに集まってきたそうであります。
さて、お道の教えに『人間は、生まれるときに証文を書いてきているようなものである』とあります。
自分の人生で起こる出来事は、自分の魂が書いたシナリオ通りだと信じることができた瞬間から、
この人生はものすごく楽になります。
白隠禅師がなぜ、すべての出来事に対し、不足も言わず、執着もせず、「ああ、そうか」と受け入れられたのか。
それは、「お前が父親だ」と言われたその時に、それもまた自分の人生のシナリオ通りであると、悟られたからではないでしょうか。
私たちの身に起こる様々な事も、すべてシナリオ通りなのです。
そう、最高・最良・最善・最適の選択をして、今、ここにいるのです。
ある檀家の娘が出産をしたのですが、娘の父親が一体誰の子かと問い詰めましたところ、
娘は頑として男の名前を口にしません。怒った父親がなおも激しく問い詰めたところ、
娘は恐れのあまり、咄嗟に「白隠禅師です」と嘘をついてしまうのです。
父親が日ごろから敬愛している白隠の子であれば、きっと許してくれるだろうという娘の浅知恵でした。
しかし、娘の父親は白隠のところに駆けこむや、
「この生グサ坊主!お前の子だ、受けとれ」と怒鳴りながら、赤ん坊を突き出しました。
もちろん白隠は、身に覚えのないことです。
ところが何の言い訳もせず、「ああ、そうか」と赤子を受けとりました。
この出来事により、白隠の名声は地に堕ち、近所の大人たちから罵倒され、
子供たちからは石を投げつけられ、大勢の弟子たちが去って行きました、
それにもかかわらず悠然ともらい乳をして歩き、赤子を親身になって育てる白隠の姿に、
娘もこらえきれなくなり、ついに父親に本当のことを白状しました。
驚いた父親は、すぐに白隠に非礼を詫び、赤子を返してほしいと恐る恐る申し出ました。
すると、白隠は怒ることなく、
「ああ、そうか」とだけ言い、赤子を返したそうです。
このことがあってから、以前にも増して信者や弟子が白隠のもとに集まってきたそうであります。
さて、お道の教えに『人間は、生まれるときに証文を書いてきているようなものである』とあります。
自分の人生で起こる出来事は、自分の魂が書いたシナリオ通りだと信じることができた瞬間から、
この人生はものすごく楽になります。
白隠禅師がなぜ、すべての出来事に対し、不足も言わず、執着もせず、「ああ、そうか」と受け入れられたのか。
それは、「お前が父親だ」と言われたその時に、それもまた自分の人生のシナリオ通りであると、悟られたからではないでしょうか。
私たちの身に起こる様々な事も、すべてシナリオ通りなのです。
そう、最高・最良・最善・最適の選択をして、今、ここにいるのです。
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