祈り
世の中には「祈っても無駄だ、気休めにしかならない」と言われる方がおられます。
その理由を尋ねてみると、
「いくら祈ったところで、起きてくること、事実を変えることは出来ないからだ」と言われます。
確かに祈りではどうにも解決できないこともあるでしょう。
事実は事実としてありのまま、火は高きに燃え、水は低きに流れることは、天地自然そのままの働きであります。
しかし、そうした事実、天地自然の働きを自分の祈りの力で動かしたりすることが、
果たして「祈り」なのでしょうか。
お道の教えにこのようにあります。
『生神とは、ここに神が生まれることである』
通例、神様というのは我々人間とは別にあるように思われていますが、実はそうではなく、
人間の中に現れる神様、生きた神様なのですね。
それが人間が迷いや欲に引っかかっているから、神様が奥の方に押し込められ、現れることが出来ないでおられる。
それでは助かる道がありません。
真の祈りとは、「自分がする」のではなく、すべて神様に「させていただく」ことなのです。
教会でお祈りしたら、わが身に神様を頂いて、そこから家庭や職場に御用に行かせて頂くのです。
家庭や職場に難儀があれば、その難儀のある家庭や職場の中に入り込んで、
わが身を使って人を助ける神様の御用に立たせて頂くのです。
これまでは自分ばかりが重荷を負わされている、面倒な事ばかりさせられる、
我慢ばかりさせられる、そのように思っていた…。
これからは人を助ける神様の御用をさせて頂くと心に決めて、
自分の生活を通して、手足を通して、神様の生きておられる働きをさせて頂くのです。
そこにこそ、助かる道があるのです。
どんな苦境にあっても、神様に祈ることが出来る人には、その人の心に神が生まれて力が出て来ます。
そして、一度この味を噛みしめたことのある人が、信心の道に入るのです。
理屈だけでは救われません。まずは祈ることから始めましょう。
その理由を尋ねてみると、
「いくら祈ったところで、起きてくること、事実を変えることは出来ないからだ」と言われます。
確かに祈りではどうにも解決できないこともあるでしょう。
事実は事実としてありのまま、火は高きに燃え、水は低きに流れることは、天地自然そのままの働きであります。
しかし、そうした事実、天地自然の働きを自分の祈りの力で動かしたりすることが、
果たして「祈り」なのでしょうか。
お道の教えにこのようにあります。
『生神とは、ここに神が生まれることである』
通例、神様というのは我々人間とは別にあるように思われていますが、実はそうではなく、
人間の中に現れる神様、生きた神様なのですね。
それが人間が迷いや欲に引っかかっているから、神様が奥の方に押し込められ、現れることが出来ないでおられる。
それでは助かる道がありません。
真の祈りとは、「自分がする」のではなく、すべて神様に「させていただく」ことなのです。
教会でお祈りしたら、わが身に神様を頂いて、そこから家庭や職場に御用に行かせて頂くのです。
家庭や職場に難儀があれば、その難儀のある家庭や職場の中に入り込んで、
わが身を使って人を助ける神様の御用に立たせて頂くのです。
これまでは自分ばかりが重荷を負わされている、面倒な事ばかりさせられる、
我慢ばかりさせられる、そのように思っていた…。
これからは人を助ける神様の御用をさせて頂くと心に決めて、
自分の生活を通して、手足を通して、神様の生きておられる働きをさせて頂くのです。
そこにこそ、助かる道があるのです。
どんな苦境にあっても、神様に祈ることが出来る人には、その人の心に神が生まれて力が出て来ます。
そして、一度この味を噛みしめたことのある人が、信心の道に入るのです。
理屈だけでは救われません。まずは祈ることから始めましょう。
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