過ちからはしごを作る
ジェームズ・アレンの言葉にこのようにあります。
人間は自分の犯した過ちから、
はしごを作ることが出来る。
ひとつひとつの恥ずべき行動を、
ひとつひとつ横木にして、
上っていくかぎり…。
人間というのは、どこまでいっても未完成、不完全なもの。生きていれば必ず過ちを犯すものなのかも知れません。
しかし、この人生で犯した過ちというのは、必ず自分自身に返ってくる。
「人に知られなければ大丈夫」と考えるかも知れませんが、他に知れる、知れぬの問題ではありません。
知られるか、知られないかは、隠しさえすればごまかせるかも知れません。
しかし、誰に知られなくとも、自分の生命の芯に狂いが生じたらどうにもならないのです。
財力があっても名声があっても、生命それ自身が狂ってしまったら、どうすることも出来ません。
横道をいくら必死に走ったところで、それらは皆必ず行き詰まるようになっているのです。
その行き詰まりは大変苦しいものでありますが、実はそこが有り難いのでありまして、
行き詰まるからこそ引き返す気にもなるし、神様を信じることも出来るのです。
信心をさせていただくということは、この天地の神様に恥じない生き方をさせていただこうと心に誓うことでもあります。
どんな時も、「神様が見ておられる」とわが心に問うことです。
お道の教えには、このようにあります。
『おかげを受けられるか受けられないかは、わが心にある。わが心さえ改めれば、いくらでもおかげは受けられる。』
自分の運命を開き、今の環境を改善したいと本気で願うのであれば、
唯一自分自身で変えられるもの―自らの心―を改める必要があります。
自分の心が自分の運命を決め、人生を形づくっていく。このことを忘れてはなりません。
人間は自分の犯した過ちから、
はしごを作ることが出来る。
ひとつひとつの恥ずべき行動を、
ひとつひとつ横木にして、
上っていくかぎり…。
人間というのは、どこまでいっても未完成、不完全なもの。生きていれば必ず過ちを犯すものなのかも知れません。
しかし、この人生で犯した過ちというのは、必ず自分自身に返ってくる。
「人に知られなければ大丈夫」と考えるかも知れませんが、他に知れる、知れぬの問題ではありません。
知られるか、知られないかは、隠しさえすればごまかせるかも知れません。
しかし、誰に知られなくとも、自分の生命の芯に狂いが生じたらどうにもならないのです。
財力があっても名声があっても、生命それ自身が狂ってしまったら、どうすることも出来ません。
横道をいくら必死に走ったところで、それらは皆必ず行き詰まるようになっているのです。
その行き詰まりは大変苦しいものでありますが、実はそこが有り難いのでありまして、
行き詰まるからこそ引き返す気にもなるし、神様を信じることも出来るのです。
信心をさせていただくということは、この天地の神様に恥じない生き方をさせていただこうと心に誓うことでもあります。
どんな時も、「神様が見ておられる」とわが心に問うことです。
お道の教えには、このようにあります。
『おかげを受けられるか受けられないかは、わが心にある。わが心さえ改めれば、いくらでもおかげは受けられる。』
自分の運命を開き、今の環境を改善したいと本気で願うのであれば、
唯一自分自身で変えられるもの―自らの心―を改める必要があります。
自分の心が自分の運命を決め、人生を形づくっていく。このことを忘れてはなりません。
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