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祈られていること

ある信奉者の方から、このような話を聞かせて頂いたことがあります。

「ある朝、学校へ向かう我が子の後ろ姿に手を合わせ送り出したとき、
 私も又このように祈られてここまで来たのだ、という実感が湧きました。」

我が子の後ろ姿を祈って送り出す自らの姿の中に、自分の親の祈りを見出し、

その祈りの中で自分が親として、我が子に祈りをかけている。

大変尊いことに気付かれたことであります。


お道の教えにこのようにあります。

『我が子の可愛さを知りて、神の氏子を守り下さることを悟れよ』

神様は人間の親であります。親が子を思う親心を通して、神様の氏子にかけられる御心を悟ったとき、

信心は生きたものになるのです。

親は、たとえ子どもが親の恩を分かっていなかったとしても子どもの世話をし続け、心を配ります。

そして、子供の至らないところは、改まり成長できるよう、祈りに祈りながら長期に亘って時節を待っているのです。

私たちが逆境の中で「助けて下さい」と神様に祈る遙か前から、

実は神様から先に、私たちのことを祈って下さっているのです。

神様が分からぬ、信心が分からぬということなど、さしたる問題ではありません。

大切なことは、この自分というものは、祈りに祈られている我が身であることに気付くことであります。

「祈り」とは神様に願い、問いかけることであるように考えられていますが、

本当はその逆で、願われ、問いかけられているのは祈っている自分自身なのです。

起きている事実を通して、自分自身が神様から「より良くなってくれ。助かってくれ。」と、

祈られ、問いかけられているのです。

神様だけではありません。自分以外の多くの人々からも願われている我が身なのです。

祈りを捧げるということは、その自らにかけられた祈りに応えて、

自分の生き方をより良くしていく決意をすることに他ならないのです

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