洗心
『信心する者は本心の玉を磨いて信心しなければならない。
鉄でも磨けば銀のように見える。金銀も磨かなければ光がない。』
錆というのは、金属とくに鉄の表面が空気に触れて生ずる科学現象ですが、
空気のせいだけでなく、鉄自身がさびやすい性質を持っています。
さびやすい鉄でも、研いだり磨いたりを怠らないなら、
さびることなく光り続け、刃物ならよく切れるようになる。
人間の心でいう錆とは「我」というもの。
迷いやすい私たちの心も、よい教えに研いで頂くことが「我」が洗い流されて、
いつも美しい状態を保つことができるのです。
そもそも、「我」とは自分の力で生きているのだと勘違いするところから生まれてくるものです。
自分の力や努力のおかげでここまで来た。欲しいものを手に入れた。
物事を一生懸命頑張る人ほど、このような考えに陥りやすく、
周囲からも「我が強い人だ」などと言われます。
そして、そのような「我」がある為に、相手が神であれ人であれ、
心から感謝する心にはなれず、また心から頭を下げることも出来ない。
「我」があるために、他の人と隔たりが出来、対立することが起こってくる。
またそこから様々な問題も生じてくる。
さらに「我」のタチの悪いところとは、そうした自分の「我」に、自分自身が気付かないということ。
それが故に、人から諭されようが、責められようが、
かえって一層「我」を募らすことになるばかりなのです。
ただ、そのような強力な「我」というものにも、唯一の弱点があります。
それは、教えを聞いて自分自身で詫びること。
教えとは、この自分というものが、生かされて生きている我が身であった、
ということに気付かせるものです。
それが腹に落ちた時、これまでの自分を恥じて、詫びる心がでてくる。
「我」というのは、自ら気付いて、恥じ、詫びることによって、
不思議と消えてしまうものなのです。
鉄でも磨けば銀のように見える。金銀も磨かなければ光がない。』
錆というのは、金属とくに鉄の表面が空気に触れて生ずる科学現象ですが、
空気のせいだけでなく、鉄自身がさびやすい性質を持っています。
さびやすい鉄でも、研いだり磨いたりを怠らないなら、
さびることなく光り続け、刃物ならよく切れるようになる。
人間の心でいう錆とは「我」というもの。
迷いやすい私たちの心も、よい教えに研いで頂くことが「我」が洗い流されて、
いつも美しい状態を保つことができるのです。
そもそも、「我」とは自分の力で生きているのだと勘違いするところから生まれてくるものです。
自分の力や努力のおかげでここまで来た。欲しいものを手に入れた。
物事を一生懸命頑張る人ほど、このような考えに陥りやすく、
周囲からも「我が強い人だ」などと言われます。
そして、そのような「我」がある為に、相手が神であれ人であれ、
心から感謝する心にはなれず、また心から頭を下げることも出来ない。
「我」があるために、他の人と隔たりが出来、対立することが起こってくる。
またそこから様々な問題も生じてくる。
さらに「我」のタチの悪いところとは、そうした自分の「我」に、自分自身が気付かないということ。
それが故に、人から諭されようが、責められようが、
かえって一層「我」を募らすことになるばかりなのです。
ただ、そのような強力な「我」というものにも、唯一の弱点があります。
それは、教えを聞いて自分自身で詫びること。
教えとは、この自分というものが、生かされて生きている我が身であった、
ということに気付かせるものです。
それが腹に落ちた時、これまでの自分を恥じて、詫びる心がでてくる。
「我」というのは、自ら気付いて、恥じ、詫びることによって、
不思議と消えてしまうものなのです。
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