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上善如水

『老子』の中に『上善は水の如し』という言葉があります。

上善とは「最も理想的な生き方」という意味であり、そういう生き方をしたいと願うならば、
水のあり方に学びさない、という教えです。

川を流れる水を想像してみて下さい。
途中の岩や木の根にぶつかりながらも、さらさらと流れていく。
水というものは、その時々の環境に応じて自由自在に動いていくところにこそ、その本質があるのです。

人間の生き方も、何事にもとらわれることなく、どこどこまでもさらさらと生きていけるようになった時にこそ、
本当に「助かった」、「救われた」と言えるのでありまして、それが私たちが求めてやまぬ生き方なのではないでしょうか。

ところが、そのようにさらさらと生きることを邪魔するものが、私たちの心の中にある。
それを「我」と言い、また「執着」と言います。
「我」も「執着」も、一つの事にこびりついて動かぬ心のあり方を言うものです。

川の流れで言いますと、一カ所にせかれて停滞しているのが迷いや心配している様子、
そこから流れが激しくなっているのが腹を立てている様子です。

なぜ流れが停滞したり激しくなったりするかと言いますと、
それは「我」なり「執着」なりというものが川底にこびりついて、水の流れを邪魔しているためです。

お道の教えとは、どんなことにもとらわれず、凝らず、迷わず、
しっかりとした生き方をしていくことを心に決めることです。

他人を見る見方においても、あの人はこういう人間だ、と決めつけてしまうところから、
その相手のことをあれこれと悩まなければならないようになる。
それがもっと自由な見方が出来るようになると、相手を決めつけることなく、
その人が何かした場合にも、それにはどういう事情があったのだろう、何か訳があるに違いない、
と察することが出来るようになり、責める心がおさまってくるのです。。

「我」や「執着」を離れていくことで、
山を流れる川の水のように、さらさらとした生き方が出来るようになるのです。

神様にお任せする

昭和の政治家である広田弘毅(ひろた こうき)は、四十八歳のとき、
それまでの華やかな出世街道から一転、オランダ公使の閑職に左遷されます。

左遷の知らせを聞いた友人たちは驚き、彼を慰めたり、励ましたりしましたが、
当の本人である彼自身はきわめて平然としており、逆に友人たちの激情をなだめ、気さくに俳句を吟じます。

「風車(かざぐるま) 風が吹くまで 昼寝かな」 

風車はオランダのトレードマークであす。
風車はいかに精巧であっても風が吹かないと回らないものですから、
自分の境遇をそんな風車になぞらえて、機会という風が吹くまで、
昼寝でもするかのごとくゆっくり待とうじゃないかと言ったのです。

彼の凄さは、政治的手腕もさることながら、
そのような逆境に対する心の持ち方にあったと言えるでしょう。

そうして、オランダ公使四年の間に力を蓄え、
やがて外務大臣、内閣総理大臣へと出世していくこととなるのです。

お道の教えに、このようにあります。
『どうにもならないと思う時にでも、わめき回るようなことをするな。
じっと眠たくなるような心持ちになれ』


何かできる時には、そのことを精一杯させて頂けばよいですが、
どうにもならない時には、何もしないで昼寝でもするかのごとく心を落ち着かせることが、
一つの大切な仕事となるのです。

何かするということも大切なことですが、
何もしないで時節を待つということにも、それに劣らぬ値打ちがあるのです。

どうにもならないことを自分の力でどうにかしようと思うと、
解決がつかず、ますます苦しくなっていきます。

ですから、どうにもならないことはまな板の上の鯉のように自分を神様に全て投げ出し、お任せする。
自分の力でどうにかしようという我を捨てることが大切なのです。 

そのように神様に任せきり、凝り固まった自分の我を放れることができれば、
物事は自然に好転して行くものであることを、忘れてはなりません。

生きるということ

曹洞宗の開祖である道元禅師に弟子が尋ねました。

「人は皆、仏性(ぶっしょう)を持って生まれているのであれば、なぜその仏性を持った人間のなかでも、
幸せになる者と不幸せになる者がいるのでしょうか?」

すると、道元はこのように答えました

「幸せになるものは努力する。そうでない者は努力しない。その差である」

弟子はすっかり納得し、大喜びしました。
しかしその晩、新たな疑問が湧いてきました。仏性を持っている人間に、
どうして努力する者としない者が出てくるのだろうか。
そこでまた翌日、道元禅師にそのことを尋ねたところ、

「努力する者には志がある。しない者には志がない。その差である」

弟子はまた納得し、喜んで帰りました。しかしその晩、またまた疑問が湧いてきます。
仏性のある人間にどうして志がある者とない者があるのか。
そこでまた翌日、道元禅師にそのことを尋ねたところ、

「志のある者は、人間は必ず死ぬということを知っている。
志のない者は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない。その差である」

人間が幸せを得るためには、死というものを知る、つまり
この人生が有限であるという、切実さを持たなければならない、そのように弟子に諭したのです。

お道の教えに、このようにあります。
『死ぬ用意をするな。生きる用意をせよ』

死に対する覚悟とは、安心して死ぬために定めるものではありません。
死に対する覚悟を持つことで、生きることがより鮮明になるのです。

人生の長さは人それぞれ違いますが、どんな人生も必ず途中で終わりを迎えるのです。
ここがゴールなどというものはありません。
私たちに出来ることは、何億年と続く生命のリレーの、
自らに与えられた一区間、この人生をどのように走るか、走ったかということに尽きるのです。
倒れるところまで、精一杯走ることが大切なのです。

切実に全力を尽くして今日という日を送るなら、
死ぬという事実もいつかの今日の出来事でしかなく、悔いは無い。
そういう生きる用意をしたいものです。

死にはせね どこへも行かぬ ここに居る

一休禅師の歌にこのようにあります。

『死にはせね どこへも行かぬ ここに居る
たずねはするな ものはいわぬぞ』


死んだからといって、どこへ行くわけでもない。ほら、ちゃんとここに居るではないか。
お墓に行って色々問うても、何も言わんぞ。一休さんらしいユーモアたっぷりの歌であります。

死後の世界があるかどうか、来世があるかどうか。
それは死んだことの無い私たちには分かりません。
しかし、この肉体が滅んでも残るものがきっとあろうかと思います。
次の世代に繋がるものがきっとあろうかと思うのです。
それは私たちの日々の行いかも知れませんし、言葉かも知れませんし、魂かも知れません。

明日が来るかと問われれば、こちらもはっきりとは断言できないでしょうが、
それでも明日があると信じているからこそ、私たちは今日を懸命に生きていくことが出来るのです。

あるところでは、「難儀の原因は、先祖の霊が迷っているからだ」と言って、
その供養に大金を要求したりされるそうですが、お金で解決出来ることなどに大した値打ちはない筈です。
それは生きた人間が迷っている証拠であります。

親にとっての最高の喜びは子供の成長でありましょう。
それならば、真のご供養とは、自分自身の心の成長を、
日々の生き方を通してご先祖様にご覧にいれること。
それでこそ、お供えする一輪の花にも、その価値が出てくるのではないでしょうか。

お道の教えに、このようにあります。
『生きても死にても天と地とはわが住み家と思え』

このお道では、人間は生死を超えてこの天地(神)の懐に抱かれている、と説きます。
ですから、死も忌むべきものではなく、葬儀も凶事とはしません。
人間は必ず死にます。どのような死に方をするかはさしたる問題ではありません。
どのような生き方をするかが問われているのです。

死んだ人に会おうと本気で思うなら、自分自身が本気で生き切ればよいのです。
天に貫き地に貫き、まっすぐな生き方、信心にならせて頂けば、
御霊様とも共に生きて行くことが出来るでしょう。
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