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人生で大切なこと

ビジネス界にもっとも影響力をもつ思想家の一人として知られる
ピーター・ドラッカーが、十三歳の時のお話です。

学校での授業中、宗教の先生であるフリーグラー牧師は
クラスの生徒たちにこのように問いかけました。

『君たちは人から、どのように憶えられたいかね?』

誰も答えられない様子を見て、牧師はにっこりと笑って、続けます。

『今答えられると思って聞いたわけじゃない。
でも、五十歳になってもこの問いに答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ』

ドラッカーは晩年、この問いについて、著書の中でこのように述べています。

『運の良い人は、フリーグラー牧師が私に問いかけてくれたように、この問いを誰かに問いかけてもらい、
一生を通じて、自らに問いかけていくことができる』

さて、何故この問いが大切なのかと申しますと、
それは、この人生が何を手に入れるかで決まるのではなく、他人とどのように関わって生きていくか、
つまり、いかに生きるか。その生き方、在り方で決まることを教えてくれるからです。

人間の生活は、いつでも何らかの願い、目標をおいて、それに向かって歩んでいます。
そこで具体的な目標を持つことは大切なことですし、その目標を達成することは重要なことでもあります。

しかし、ここで間違いを起こしやすいのです。
目標を達成しようとするあまり、今の自分のしていることの効果ばかりに心が向かうようになる。
目標達成の効率を上げることに目を奪われ、そのことに走ってしまいがちなのです。
そうして目標達成のために、手段を選ばぬ在り方に傾き、手元が狂い、生き方が崩れていくのです。

お道の教えに、このようにあります。
『日に日に生きるが信心なり』

いかにして生きるか。それが神様の御心に沿った生き方となるように心掛けることが信心であります。
『君たちは人から、どのように憶えられたいかね?』
人間としての生き方、在り方が問われているのです。

勤めるべき役

『これほど信心するのに、なぜこういうことが
起きてくるのだろうかと思えば、もう信心は
とまっている。
…これはどこまでも私の勤めるべき役であると
思って、信心をしていかなければならない。
そこからおかげがいただける。』


御霊地で修行させて頂いていたときのことです。
朝の御祈念に参らせて頂く道中、前を歩く先生の足元がたいへん腫れておりましたので、
「どうされましたか」と尋ねたところ、「神様に叱られました」と。

「どうされましたか」という私の質問は、足の腫れの原因が病気によるものなのか、
何か事故に遭ったのかということを尋ねているのです。
それに対して、その先生は足の腫れを信仰的に捉えて、
自分の生活態度、心掛けの問題を反省したところから、「神様に叱られました」と答えられたのです。
これにはたいへん感銘を受けました。

今日では医学知識が一般化し、足が腫れた場合にも、何故そのような腫れが生じているのか、
どのような処置をすればよいのか等ということは、大方見当がつきます。

しかし、ただ単に病気やケガを知り、手当てをするだけでは、
その病気やケガをわずらっている人間が助かることにはならない。
愚痴や不満に陥ることにとどまって、人間の助かる生き方は生まれて来ないのです。

災難についても同じことです。
起こり来る事態について、自分と神様との関係を離れて、ただ災難とだけ捉えたのでは、
人間が生きていくうえに助かる生き方は開かれてこないのですね。

病気なら病気のままに、そのことを自分の勤めるべき役として、その病気をしっかりと味わい、
そこで自分の生き方を見つけていく。
病気になったおかげで、健康なときにはわからなかった人生の別の意味がわかり、
他者の病苦が察せられるところから、本当の意味で病人を慰めることができる。

自分はそのためにこそ病気になったのだ、そう思えるようになった時、
失ったものより遥かに大きなものを手にしたことになるのです。

苦労は楽の種、幸せの種

『桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。
桜の花は早く散る。梅の花は苦労しているから
すぐには散らない。』

梅の花は厳しい寒さの中を耐えてつぼみを付け、
長く咲き、素敵な香りを私たちに届けてくれます。
更に花が散った後には梅の実が残り、私たちの健康の役にも立ってくれる。
花も人も、厳しい状況を懸命に耐え、そして乗り越えていくところに、
真の喜びや生き甲斐が訪れるのではないでしょうか。

雨の日に、「今日が良い天気だったらなぁ…」と今の天気を嘆いたところで
成長はありませんし、幸せにもなれません。
雨の日には、快晴とは違った別の眺めがあり、趣がある。
雨が上がった後には、美しい虹が見えるかも知れないのです。

木の中にも、樹齢何百年という木がありますね。
長い歳月をかけてそこまでになり、もう押しも押されもせず、
風が吹こうが雨が降ろうがビクともしない。
今はただ、その木がそうして栄えているだけで、その土地の品位を高め、
周囲に人が集まり、神木と呼ばれて、人から手を掌わせられたりもする。

しかし考えてもみて下さい。
そのような立派な木にも当然、双葉の時期もあり、苗木の時期もあり、
若木の時期には僅かな風にも折れそうになり、日照りには枯れそうになり、
どうなるかと周囲から心配された時期もあったはずですが、
それを耐えに耐えたからこそ、ここまでの成長があり、今日を迎えているのです。

このことを考えると、私たちもこの自分自身をしっかりと育てさせて頂くことが大切だと思います。 
仕事をさせて頂くのでも、難しい方を選択させて頂いて先に苦労させて頂きますと、
心も技術も鍛えられて、また有頂天になることもなく努力を続けることが出来るようになる。
結果として、先に楽を取るよりも、長く働かせて頂くことが出来るのです。 

梅の花のように長く咲いてお役に立つ様に、それぞれに与えられた苦労をしっかりと味わい、
精一杯勤めさせて頂きましょう。その苦労は楽の種、幸せの種ともなるのですから。

足音

平成二十一年に百一歳で亡くなられた臨済宗の禅僧、
松原泰道師は、『言葉は心の足音』と説かれていました。
思わずハッとされられる言葉ですよね。

私自身のことで考えてみましても、
心が乱れている時には自然と言葉も乱れていることに気付かされます。
怒っている時やイライラしている時などには乱暴な言葉を使い、また乱暴な口調になっている。

また逆に、嬉しい時や楽しい時には自然と柔和な言葉、柔和な口調となっている。
そのように自分自身の感情が言葉として音となって表れるので、
松原師は「心の足音」と説かれたのでしょう。

自分自身の心というのは、はっきりとは見えず聞こえず、それがゆえに見失いやすいものですが、
心の足音、自らの言葉であれば、しっかりと我が耳に聞くことが出来るものです。

かつて日本は「言霊の幸わう国」と呼ばれていました。
「言霊」とは言葉に宿る霊(たましい)の働きのことです。
言葉とは「ことの葉」、葉はものを包むものですから、
言葉という風呂敷に、自分の一番綺麗な霊(たましい)を包んで、
人に差し上げるのが本来の姿なのですね。

そうしてはじめて言葉を渡した者も、言葉を受け取った者も喜び幸わう。
ともに幸せになれるのです。
本当に良い言葉を出すには、その心掛けで毎日やって行かねばなりません。

毎朝の「おはよう」から信心が始まるのです。
これまで言ったことのない「おはよう」の言葉を、
親に対し、妻に対し、子どもに対し、心掛けていく。
そこから一日の信心が始まるのです。

その信心から出る言葉の一つひとつが、私たちの生活を幸わうものにしていく。
そこに神様がお働き下さるのです。

自分だけの為ではありません。良い言葉は良い言葉を生んで来るものですから、
周囲の人々をも助けることに繋がっていくのです。
普段何気なく使っている言葉の中に、どれだけの愛と祈りを込められるか。
そこのところを、共々に取り組ませて頂きたいと願います。
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