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自分が書いたシナリオ

『人間は、生まれるときに
証文を書いてきているようなものである』


「出来事には必ず教えがある」という言葉があるように、
この人生の中で、悩んだり、迷ったり、苦しんだりした時、
この出来事は「自分に何を教えているのか」と考えてみることが大切です。

その際、自分の人生は、自分の魂が書いたシナリオ通りである
と信じることができたならば、心はとても楽になります。

自分の魂の書いたシナリオ通りであるなら、過去を悔やむこともない。
未来を案ずることもない。何故なら、自分の魂の成長のために、
最良、最高、最適なシナリオを神様とご相談のうえ決めて、この世に生まれてきたのですから。

そのように考えると、「死ぬ」ということも実は不幸ではないのです。
死ぬこともすべて、生まれる前に「自分が書いたシナリオ」なのです。
ですから、不運・不幸で死ぬのではなく、シナリオ通りに死んでいく。
死ぬのは、事故でも病気でも老衰でもなく、「寿命」しかないのです。

幼い子どもを亡くすというのは親にとってこれほど辛いことは無い。
出来ることなら自分が代わってやりたいと思うのが親心というものでしょう。
しかし、実はそれも、「子ども自身が生まれる前に書いてきたシナリオ」であり、
親も同様に、「子どもを先に逝かせる」というシナリオを書いて生まれてきたということになります。

残された親は悲しむのは当然なのですが、その悲しみを乗り越えられるかが重要なのですね。
亡くなった子どもは、悲しみだけでなく色々なものを親に与えにきてくれたのです。
悲しみの体験を通じて、その親は他の悩みや苦しみを抱える人たちの人生相談に乗ることができ、
優しく慰めることが出来るようになる。そのような親になってもらうことこそが、亡くなった子どもの願いなのですね。

不幸にしか見えない事柄の中に、どれだけの恩寵があることか。
その苦悩や絶望が縁となって、神様の願いに気付かせていただき、
そこから信心の道に進ませていただけるのです。

天命を知る

『神を信じる者は多いが、神に信じられる者は少ない』

孔子(こうし)の言葉にこのようにあります。
「吾れ十有五にして学に志す。
 三十にして立つ。
 四十にして惑わず。
 五十にして天命を知る。」

さて、多くの方がこの「天命を知る」、天によって定められた自分の運命を知る境地を目指され、
日々修養されているかと思いますが、それは具体的には一体どのような境地、生き方なのでしょうか。

孔子や論語と聞くと、人間の道徳に関する教えであるかのように一般的には言われますが、
「天命」というからには、そこに天、神、仏というものがしっかりとある。
教えを学んでいくと、そこに宗教というものがあるということが分かってまいります。

と言っても、宗教という言葉も実は最近出来たものであって、
孔子が生きた時代には、今のように「宗教」と「道徳」とは切り離して論じられるべきものではなく、
二つを合わせて「道」としていました。

実際に孔子自身も、十五歳から四十代までは学者的な生き方をされ、
人から様々な話を聞き、万巻の書を読んで、
知識に基づいて「四十にして迷わず」の域に達せられました。

しかし、五十代になり道というものの本質に近づいて行くにつれ、
人や書を越えた、天との関わり合いの中での
人間の生き方というものを求めていかれるようになったのです。

「信じられる」ようになるということは、相手に自分の願い通り動いてもらうのではなく、
むしろこちらが相手の願い通り動こうとすることです。

それには、起きてくる出来事を全て「与えられた」ものとし、
人であれ、仕事であれ、目の前のことすべてに、人間として出来る限りの誠実さでもって当たることしかありません。

「天命を知る」というのも、自分の特別な才能、能力に気付くということではなく、
自分に与えられたものを全て天の恵みとして受け取り用いていく中に、
自分というものが活きてくるということを知ることなのです。

わたしがわたしになるために

相田みつをの詩にこのようにあります。

 この世は
 わたしがわたしになるところ
 あなたがあなたになるところ

「出来事には必ず教えがある」と言われるように、この人生の中で、
悩んだり、迷ったり、苦しんだりした時、この出来事は「自分に何を教えているのか」と考えてみることが大切です。

わたしがわたしになるために、あなたがあなたになるために、
その悩みや迷い、苦しみはどうしても必要なものである。そのように頂いてみてはいかがでしょうか。

お道の教えには、このようにあります。
『神は、人間を救い助けてやろうと思っておられ、
 このほかには何もないのであるから、
 人の身の上にけっして無駄事はなされない。
 信心しているがよい。みな末のおかげになる。』


自分の人生は、自分の魂が書いたシナリオ通りだ
と信じることができたならば、心はとても楽になります。
自分の魂の書いたシナリオ通りであるなら、過去を悔やむこともない。未来を案ずることもない。
何故なら、自分の魂の成長のために、最良、最高、最適なシナリオを、
神様と相談のうえ決めて、生まれてきたのですから。

そして、その悩みや迷い、苦しみの中にある教えをしっかりと頂いたならば、
出来事に対して「ありがとうございます」と感謝することもできるようになるでしょう。

その悩みや迷い、苦しみが縁となって、わたしが理想のわたしになることが出来、
あなたが理想のあなたになることが出来るのです。

出来事だけではありません。恩人というのも、なにも自分にとって感謝すべき人、
尊敬すべき人に限ったことではありません。
反面教師もまた恩人。自分の魂がシナリオに描いた、重要な登場人物なのです。
無駄事なんて決してありません。

自分の頭を叩け

『子の頭を叩くより、
親である自分の頭を叩けば、
すぐおかげになる』

鹿児島・薩摩にはかつて「郷中(ごちゅう)教育」と呼ばれる、武士階級の子弟教育法がありました。
その特徴は、町内の子供たちの中で一つの組織をつくり、
年長者が若年者の先生役として指導するというものですが、
その指導方法とは言葉によるものではなく、行動によって手本を見せるというものでした。

そして、あの西郷隆盛も、この独自の教育方法の中で育った一人なのです。
その西郷が鹿児島に私学校を開校するにあたり、
校長には、西郷と同じ郷中に育った後輩である篠原国幹(しのはら くにもと)を選び、その教育を託しました。

さっそく篠原は私学校の教育体制を整えようと考え、西郷にこう尋ねます。
「私学校の校則はどのようにしましょうか?」
すると西郷は篠原をじっと見返し、一言言いました。
「お前が校則になれ」

生徒は教師を見習うものですが、その教師が見習うのはその上司である校長に他なりません。
校則を条文として書くことよりも、まずは自ら模範となってやってみせよ、
そのように西郷は諭したのです。

家庭でも会社でも、自分が上に立ってみると、相手を指導するにも自分の権限を利用して、
ついつい言葉に頼ってしまいがちです。
そして偉そうに言う割には自分も出来ていなかったりすることがあるので、
相手にも本当に正しいことが伝わらないのです。

言葉で言うのは簡単ですが、いざ行動に現すとなると大変難しい。
それは相手も同じことです。

誰かと待ち合わせするのでも、自分が間違った場所にいては、
いつまでたっても相手と会うことは出来ないでしょう。
自分が約束通りの正しい場所で待っているのであれば、
たとえ相手が遅れたとしても、いつかは必ず会えるものです。
相手に正しい処に来て欲しいと願うならば、
まずはこちらが、正しい処で待つことが大事なのです。
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