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幸せとは誰のもの

人は何故勉強しないといけないのでしょうか。
良い学校へ入って、立派な社会人になるため?
では、「立派な社会人」って何なのでしょうか?
立派な会社に入り、立派な家に住んで、立派な車に乗って、
華やかな生活を楽しむことが立派なのでしょうか。

子供に「何故勉強しないといけないの?」と聞かれて何と答えるか。
大人はこの辺りのことをしっかり考えておく必要があります。

「願い」という言葉の語源は「ねぎらい」であるそうです。
「ねぎらい」という言葉を辞書で引きますと、
「相手の努力に対して感謝の意を表すこと」とあります。
つまり、「貴方様のお陰でございます。いつもありがとうございます」と、
感謝の気持ちを込めてお礼を言うこと。これがねぎらいであり、
神様に願うことの本質は、正にここにあるのです。

しかし現実には、「願い」というものが、ただ神様に、
自分にとって都合の良い御利益を願っているだけというのが大半なのではないでしょうか。
繰り返し申しますが、何の為に神様に手を合わせに行くのかと言えば、
本来はお礼を言う為に行かせて頂くのです。

誰にお礼とするかと言えば、神様、
そしてお世話になっているすべてのものにお礼が必要なのです。
普段当たり前だと思って過ごしていること。
目が見える、耳が聞こえる、話すことが出来る、食べることが出来る、歩くことが出来る…。
多少の不足を抱えながらも、こうして日々生かされている「いのち」に
お礼を申すことが信心の土台となるのです。 

そして、すべてのものにお世話になって生きているのが人間ですから、
人のお役に立つ為の為にこそ勉強するのです。
そして自分に恵まれた力を最大限発揮して、より人のお役に立つ為に、
自分にとってより良い学校や仕事に就かせて頂くのです。 

人間の幸せとは決して自分だけのものではありません。
真に教養のある人とは、自分の喜びを他人に分けてあげられる人のことを言うのです。
そうしてお礼を申す気持ちを先に立てるところに、神様がお働き下さる。
足りぬだけの分は神様が足して下さる。ですから人は願うことで助かって行くのです。

どうにもならないと思う時

『どうにもならないと思う時にでも、
わめき回るようなことをするな。
じっと眠たくなるような心持ちになれ』

中国・明の時代に書かれた、『菜根譚(さいこんたん)』という書物の中に、
「口乃心之門(口はすなわち心の門なり)」とあります。
食物と言葉の出入口である我々の口は、実は心の出入口でもあるのですね。
この口を慎重に守らなければ、心というものは気付かぬ内に洩れ出て流されてしまう。
ですから「心の門」である口にいつも注意を払いなさい、と教えているわけです。

また、門(出入口)というからには、口から出た言葉が、
やがて返ってくるという意味も込められているのでしょう。
昔から言霊(ことだま)という言葉があるように、
一度発した言葉には魂が宿るものです。
そしてその言葉は後に、言葉を発した人の心、
大きく言えばその人の人生をもつくりあげて行くのです。
一度自分が言った言葉は、やがて必ず自分のもとに返ってくる。
いよいよ心の門である口の扱いが大切になってまいります。

しかし、そうは言っても人間ですから、ついつい感情が口からこぼれそうになる。
その感情が感謝や喜びであれば問題無いのですが、
不足や怒りであっては、その後の人生をも台無しにしかねません。
そのような時、どのようにすればよいか。

そういう時こそ、じっと眠たくなるような心持ちになることが大切です。
それがわめき回りたくなる状況から抜け出す唯一の道なのです。
口を開けば感情に流されやすい。
感情を口に出してしまえば、その言葉に流されてしまうのが人間というもの。
ならば、心の門である口をしっかりと守って、時には鍵を掛けて固く閉ざすことも大事なのです。
人や物事を責めようとする「思い」をそのまま口に出さず、
静かに神様へと心を向けていくことが、大切なのですね。

表行よりも心行をせよ

『人を不足に思わず、物事に不自由を行とし、
仕事に勤め、身分相応を過ごさぬよう倹約をし、だれにも言わずに行えば、これ心行なり』

明治中期の頃、ある方が金光教祖のもとに参られ、このような相談をされました。
「徳を積ませて頂くためにしばらくの間、山に籠もって
修行させて頂こうと思うのですが、いかがなものでしょうか」

すると金光教祖は、このように御取次されました。
「それは結構ですね。しかし、何もわざわざ不自由な山に籠もらずとも、
心の中に山をこしらえて、その中で修行をされたらどうでしょうか。
自分が山に入った心になっていれば、どんなに不自由なことがあっても、
また奥さんの作った料理がたとえ不味かったとしても、決して不足を言うことはないでしょう」
 
さて、修行と言いますと、
形を正すことによって心を正す表行(わぎょう)と、
まず心を正して形にまで及ぼす心行(しんぎょう)との
大きく二つに分かれます。
そして大抵の者は表行をしたがる。
これは私自身もそうでありましたからよく分かります。

元来人間の心というのは大変変わりやすいものですから、
心をただ心だけで維持しようとするのは大変難しい。
そこで、生活の中に見える形として現し、そこで維持していくようにすると、
自分の信心があたかも進んだような気分になります。
寒中に冷水を浴びたり、断食したりすることがこれに当たります。

しかし、そうした表行をして、どれだけ我が身を苦しめてみても、
残念ながらその効果とは意外と小さく、短いものであります。
山の仙人にはなれても、里で仙人になることは今も昔も大変難しいのですね。

そこで金光教祖は、「表行よりも心行をせよ」と教えておられるのです。
心行とは身に起こる一切の問題、不自由を「行」と受け切るところにあります。
しかし、受け切ると言っても、それがただのやせ我慢、忍耐であっては、それも表行となってしまいます。
真の心行とは、そこに山をこしらえて、一歩進んで嬉しい心で受け切る器を養うところにあるのです。

信心の肝心要

『神様は目にこそ見えないが、
そこら辺りいっぱいにおられるので、神様の中を分けて通っているようなものである。』

教育者である、東井義雄先生の詩に、このようにあります。

見えないところで 見えないものが
見えるところをささえ
生かし 養い あらしめている

人間、目に見えないものは信じられないものです。
目に見えないものは、いくら人から説明されてもやはり見えないものですから、疑えばキリがありません。
「神を信じられない」と言われる一番の理由も、目には見えないからでしょう。

しかし、この世の実際とは、目に見えないものが、目に見えるものを支えているのですね。
金魚鉢の中を泳ぐ金魚は、鉢の中の水を泳いでいることを知らないのと同じように、
人間も目に見えない大きな働き、そのお恵みの中で生かされていることが自分自身にはどうしても分からないのです。

生きるということは、神様のお働きの中で生かされ、生きているということ。
信心するということも、神様のお働きの中でしているのであり、
神があるかないかと論じるのも、神様のお働きの中でしているのです。

ですから、このお道では参拝するにしても、仕事をするにしても、何をするにしても、
「させて頂く」とか「神様のおかげを頂いて」という言葉をつかうのですね。

神様が分かるということは、知識や学問として神が分かるというものではなく、
信心が進んでいく中で、自分の命、生活は自分だけのものではなく、
一切の働きによって「生かされて生きている」ということが分かるということなのです。

神様がどこにいて、どのような姿で、男か女か、などというのは、さしたる問題ではありません。
「生かされて生きている」ことに感謝をして生きていくこと。肝心要のところはここにあるのです。
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