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人の本質

『人が人を助けるのが人間である。
人間は、子供がころんでいるのを見て、
すぐに起こしてやり、また水に落ちているのを
見て、すぐに引き上げてやることができる。
人間は万物の霊長であるから、自分の思うように
働き、人を助けることができるのは、ありがたいことではないか。』

中国・清の第五代皇帝の雍正(ようせい)は、
国と人民のために寝食を惜しんで働いたことから、中国史上最も勤勉な皇帝とも言われています。
その雍正が学問をするうえで最も大切にしたことが、「自得(じとく)」という言葉でした。

自得とは「自己を得る」。
つまり、「自らを知る」ということですが、雍正は自得園という別邸まで建てて、
自らを知ることに真剣に取り組んだそうです。

自得の大切さは、なにも東洋だけの考えではありません。
ソクラテスも「汝、自らを知れ」。
ゲーテも「人生は自分探しの旅だ」と言っています。
考えてもみますと、私たちは学ぶことにせよ、働くことにせよ、
名を成そう、人から賞賛されよう、とばかり考え躍起になるものですが、
そこに執着するあまり、自己というものを見失いがちであります。

しかし誤ってはならないことは、人は社会的に何かを成し遂げたから偉いのではなく、
その人に与えられている生命自体が尊いのです。
自らを知るとは、その自らの生命に託された「願い」を知るということ。
何をするかという手段ではなく、人間とは何かという根本を知ることです。

『人が人を助けるのが人間である』
ということは、私たちが学ぶこと、働くこと、活動すべての中心に
「人を助ける」ということを置けば間違い無いという教えなのですね。

つまり、学ぶということは、自らを高めて人の役に立つために学ぶのであり、
働くということも、自らの身体、能力を用いて人が助かることをするために働くということになります。
自得とはこのことを悟り、実行して行くことであり、
自得した者が成す仕事とは、その職業が何であれ、自他ともに幸せをもたらす仕事となるのです。

子供とともに

相田みつをさんの詩に、このようにあります。

アノネ
親は子供をみているつもりだけど、
子供はその親をみてるんだな
親よりもきれいな、
よごれない眼でね 

子供というのは、親が子供に対して思っていることが、本当に自分への愛情なのか、
親自身の自己愛なのかということを、非常に敏感に感じ取ります。

親はともすると、自分が果たせなかった夢を子供に託したりして、
自分が持ち合わせなかったような、無理難題ともいえる要求を子供に課してしまいがちではないでしょうか。
しかし本当は、子供をそのまま、子供のありのままを受け入れて、
信じてやればそれでよい。それだけでよいのです。

たとえ子供が親自身の弱点や欠点ばかりを受け継いだとしても、
「私の子供の頃にそっくり同じ。やっぱり親子やなぁ」と肯定的に思いながら育ててやれば、
さぞかし子供は、楽な気持ちでのびのび育つことができるでしょう。

子供は親が「思っている」通りに育つと言われますが、「望んでいる」通りには育ちません。
ですから、子供のことを信じてやりさえすれば、「信じられるような」子どもに育っていく。
それを、『心配だ、心配だ』といって信じてやらないから、
「信じられない」子どもに育っていってしまうのです。

生きとし生けるもの、存在するもの、
皆、神様のお造りになられたものなのですから、みんなそのままで美しいのです。
可愛い子ども、素晴らしい子どもだと、こちらに感じとれる心があれば、
子どもはみんな、そのように育っていくのです。

子供を授かってはじめて人は親になる。
言わば、子供とともに生まれ、子供とともに成長させていただくのですね。
そのような謙虚な心で子育てをさせていただきましょう。

神が生まれる

『生神ということは、
ここに神が生まれることである』

室町時代に活躍した浄土真宗の僧、
蓮如上人がある田舎町に訪れた時のことです。

糸を紡いでいた老婆が蓮如上人に向かって、
「私は糸を紡ぎ紡ぎ、念仏を唱えております」と言いました。
老婆は心の中で、蓮如上人がきっと満足の意を表されるであろうと期待していたのですが、
蓮如上人からは思いがけない答えが返ってきました。
「婆様、そうではない。念仏を唱え唱え、糸を紡ぎなされよ」

「糸を紡ぎ紡ぎ、念仏を唱える」とは、糸を紡ぐという仕事をしながらも信心を忘れずにいる、
ということですが、蓮如上人はそれではいけないと。

そうではなくて「念仏を唱え唱え、糸を紡ぐ」。
つまり、信心を中心に置いて、糸を紡ぐという仕事をしなさい、
と老婆に教えられたのです。

仕事をしている自分がいて、その自分が信心をしているのであっては、
仕事が行き詰まった時、自分自身が行き詰まった時、助かる道はありません。

信心を中心に置けば、神様が中心に居られることになる。
神様が中心に居られて、信心させて頂いている自分が神様の手足となって働かせて頂くのですから、
仕事が行き詰まっても、自分自身が行き詰まっても、それを乗り越える力を与えて頂けるのです。

通例、神様というのは我々人間とは別にあるように思われていますが、
そうではなく、人間の中に現れる神様、生きた神様なのです。
それが人間が迷いや欲に引っかかっているから、神様が現れることが出来ない。
奥の方に押し込められている。それでは助かる道がありません。

「自分がする」ではなく、すべて神様に「させていただく」。
神様のお仕事を自分の手足を使ってさせていただき、
神様の生きておられる生き方を、自分の生活をもってさせていただくのです。
そこにこそ、助かる道があるのです。

往生

仏道に「往生」という言葉がありますが、
これは一日一日を大事にして生きる生き方のことです。
そして死ぬのは、神さま仏さまにお任せすればよい。
「花の命は短くて」という有名な言葉がありますが、
それは人間の嘆きでしかありません。

坂村真民さんの『花』という詩に、このようにあります。

花には
散ったあとの
悲しみはない
ただ一途に咲いた
喜びが残るのだ

花は、自らの美しさを誇示しょうとして咲いているのではありません。
人間が見ていようと、見ていまいと、ただ懸命に、「花だから咲く」のです。

自分に与えられたいのちを、与えられた環境の中で、与えられた役割を精一杯、
ただひとすじに果たして、次の世代にいのちをつないでいくのです。

朝顔は朝に咲いて夕べにしぼみ、夕顔は夕方に咲いて夜明けにしぼむ。
でも、一生懸命に咲いたのですから、朝顔も夕顔も決して悲しんでいないでしょう。
咲くのが、朝顔、夕顔の喜びなのです。

私たちが花を見て美しいと感じるのも、その花の形や色などの見た目だけにあるのではなく、
自らの生命を全うし、ただ一生懸命に咲いている、
そのひとすじの気持ちが私たちを感動させるのですね。

私たち人間にもまた、自らに与えられた生命を精一杯に喜び、
全うする役割が与えられているのではないでしょうか。
今日一日、自らに与えられた仕事を精一杯に喜んでさせて頂けるかどうか。
自分の中から喜びを生み出す稽古こそが信心であります。
人間にとって感謝にまさる生き甲斐はないのですから。

この自分の中から、どれだけの喜びが現れ出るか。
花も咲かせ、実も結ばせて、ただひとすじに咲き切ろうとするところに美しさが生まれるのです。

人生のリレー

坂村真民先生の詩にこのようにあります。

あとからくる者のために
苦労をするのだ 我慢をするのだ
田を耕し 種を用意しておくのだ
あとからくる者のために
しんみんよお前は 詩を書いておくのだ
あとからくる者のために
山を川を海を きれいにしておくのだ
あああとからくる者のために
みんなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々自分でできる何かをしておくのだ

私たちの人生の長さは人それぞれ違いますが、どんな人生も必ず途中で終わりを迎えます。
ここがゴールなどというものはありません。

私たちに出来ることは、何億年と続く生命のリレーの、自らに与えられた一区間、
この人生をどのように走るか、走ったかということに尽きます。

リレー走者が心掛けることは何か。
それは、バトンを手渡す者たちの為に何が出来るかということ。
それに尽きるのです。

自分から人に何かしてあげなさい、などという教えを聞くと、
なるほど確かにそれは善いことには違いないが、こっちが損じゃありませんか、
と思うのが人の心というものです。
しかし、そう思うのは教えの本当の意味が分かっていないからであります。

人に親切にするということは、自分自身が嬉しい。
進んで人のお役に立とうとすることを、自らの生命が求めている。
そのことを私たちに気付かせようにするのが、教えの根本なのです。

人に親切にし、進んで仕事をしようとするとき、自分の中から大変よいものが湧き出る。
それが嬉しさとなり、気持ち良さとなり、幸せとなるのです。
生命のバトンを繋ぐ一走者として、自分に何が出来るのか。いつからでも遅くはない。
そこにこそ、本当の幸せがあるのです。
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