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「させていただく」という心

『仕事をするというから神は見ている。
 仕事をさせていただくという心になれば、
 神はつきまとってさせてやる』

人間の性(さが)とは悲しいもので、金を持たない者が多少の金を持つようになると、
金を持たぬ者を見下す心持ちになる。
大きな会社に勤めれば、小さな店を侮って見るようになる。
役職に就けば、今まで同輩であった者に対して、尊大な態度で接するようになる。

人間の自己顕示欲が、競争社会の中で勝ち得た優越感から、
醜い相として現れるのですね。
かつて経営の神様と呼ばれた松下幸之助は、
「豊臣秀吉もナポレオンも素晴らしいリーダーであったが、二人とも幸せな晩年を迎えることはできなかった。
 それは、おそれるものがなかったからだ」
と部下に教えたそうであります。

実業会において、怖いものがないほど登りつめられた松下幸之助が教えた「おそれ」とは、
ただ何かを怖がるというような意味ではなく、神仏を畏れ敬い、
人間の欲望を畏れ慎むという意味が込められていたのではないかと思うのです。

いくらお金を稼げるようになったからと言って、
また、いくら人としての生き方が分かったからと言ったところで、
自分の思いや行いが百パーセント間違い無いなんてことは有り得ません。

気を抜けば、怠け心が起こる。傲慢になる。人を見下したりもする。
そうなってしまう自分の弱さが怖い。
また、そのような傲慢を許さない、この天地を貫く道理、働きというものが怖いのです。

幸せや成功があるのは決して自分の力からではない。
もともと何の力も無い自分が、この天地に生かされて、人のお役に立たせて頂いているのですね。
ですから、何事も「させて頂く」ことである、ということを決して忘れてはなりません。

何事にも道があるように、仕事にも道がある。
仕事の道とは、仕事を神様から差し向けられたものとして、有り難く勤めさせていただくこと。
有り難く勤めさせていただくところに、有り難いおかげが受けられるのです。

幸せに満ちた人生

『お天道様のお照らしなさるのもおかげ、雨の降られるのもおかげ、
人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。

人間は、おかげの中に生まれ、
おかげの中で生活をし、
おかげの中に死んでいくのである。』

信心をすれば一切の苦難が無くなるかと問われれば、
残念ながらそんなことは有り得ないでしょう。
人が人として生きていく以上は、色々な苦難にどうしても直面していきます。

しかし、事実として苦難がありながらも、そのことで心が苦しまなくなる。
その苦難の中にも「幸せ」を見出せる。
別の角度から物事を見つめ、そこに自然と手が掌わせるようになる。
信心させて頂くと、そのような身の上にならせて頂けるのですね。

過去の出来事を捨て去ることはできなくても、とらえ直すことはできます。
現実を変えることが出来なくても、悩みに対する心の持ち方を変えることはできます。
境遇は変えられなくても、生き方を変えることで人生の見え方が変わるのです。

「○○さえあれば、私は幸せになれる」
「○○にならないと、私は幸せになれない」
と思い込んでいる人は、その幸せが得られない限り幸せになれませんし、
他の幸せになかなか気付くことが出ません。
しかし、実はこの世の中は、数え切れないほどたくさんの「幸せ」に満ちているのです。

自分がすでにもっている幸せもたくさんあるし、これから出逢う幸せもたくさんある。
ただし、そのすべての幸せを得られるわけではなく、自分にはどうしても得られない幸せというのもあります。

そして、自分にも得られる幸せがこの人生には必ず準備されていて、
しかもそれは一つや二つじゃありません。数え切れないほどたくさんあるのです。
大切なことは、私たち一人ひとりがその自分に準備された幸せに気付くだけのことなのです。

自らの敵は

『我よしと思う心を仇として
 戦いて行け 日ごと夜ごとに』(安武松太郎師)

「自分が正しい」と思うことこそが、自らの敵である、という教えであります。

おそらく全ての人間が人に対して、心から愛し合い、信じ合い、
良い心持ちで付き合うことが出来るようになりたいと心の底では願っているのに、それがなかなか出来ない。

そして、その出来ない原因が、相手の悪いところにあると思うところから、
色々な不平不足が心の中に生まれ、また口からも出て来るのです。

しかし、「仲」というものは自分だけでつくるのではなく、また相手だけでつくるのでもない。
自分と相手との言わば「合作」なのですね。

そのように考えてみますと、仲が悪いということは、相手もさることながら、
自分にも少なからず原因がある、ということになります。
そもそも、不平とか不足とかいうものが起こるというのは、
自らの心のどこかに「自分は正しい」と思うところがあるから起こるのです。
それこそが己の敵である、と。

深刻な人間関係の問題を解く道は唯一つ。
それは、自分自身の至らなさ、未熟さに気づいて、自ら詫びることなのです。
自分の手元に、こだわりがあったり、曲がったものがあるから、人間関係に行き詰まる。

人間の仲というのは不思議なもので、仲の良い者同士の間では、悪いところが不思議と出てこない。
出ても悪いと感じないのです。
それは、何も仲が良くなったから、急に相手が善人になったのではなく、
仲が悪くなったからといって、急に悪人になるわけではありません。
相手はそのままでありながら、仲さえよくなれば、悪く思えないようになるのです。
ここに、人間の間柄の妙味がある。

ですから、人間というのは、そう単純に良し悪しなど言えないものである。
このことをいつも心に留めておかなければなりません。

親と子の間柄

『神は人間の親様である。
信心をする者は、一生死なぬ父母に巡り合い、
おかげを受けていくのである』

神様とは、人間を祟ったり罰を与えたりする存在では無く、
人間を愛してやまない親神様なのですね。

考えてみれば、数多ある人間関係の中でも親と子の間柄ほど、根本的に「善いもの」はありません。
何故それほど善いかというと、それは、親が子を無条件に許すところにあります。
親は子どもの事を子ども自身が知っているよりもよく知っており、
子どもの欠点短所をもよく知っていて、その上で可愛がることが出来る。その欠点短所を許すことが出来る。

子どもからすれば、この「知っていて可愛がってくれる」、「知っていて許してくれる」、
ここに有り難いところがあり、助かるところがあり、育てられるところがあるのですね。

自分の秘密を親ほどよく知っていて、もし可愛がらないということになれば、
これほど恐ろしい敵はいませんよね。油断も何も出来たものではない。

けれども、子どもが親の前では用心せねばという気が少しもしないのは、
自分のそのまま、ありのままを親が愛してくれる、許してくれる、
と子ども自身がよく分かっているからなのです。

その深い親しみは何とも言えぬものですが、もし名をつけるとすれば、
これこそが「信じる」という心持ちなのでしょう。

他の人間が自分のことを本当に愛してくれていると信じ切れる時、
人は心から落ち着くことが出来ます。その代表例が、親と子の関係なのです。

同じ親でも、神様は人間よりも遥かに気が長く、心が広い。
責めるところが一切無い為に、ものを言われることもない。
これ程愛情深い親はいないのです。
私たちがこの人生で信心のご縁を頂くことは、その親神様と出逢ったということ。

その「一生死なぬ父母」に巡り合えたことに御礼を申し、
親に恥じぬ生き方を心掛けていくのが、信心なのです。
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