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かみしめれば味がわかる

『信心はかつお節と同じことである。
かみしめれば味がわかる。』

信心というのは、
読んだり聞いたりするだけではどうしても分からないものです。
身の上に起きて来る事柄を通して、
その中にある「有り難い」ものを自らの心で受け取らせて頂く。 

苦しい時に教えを聞いて、心のもつれが解けたような、
有り難い気持ちがしたというその時に、
その正体をとらえて味わわなければなりません。

そして、そのコツを自分が押さえて、
いつでも心のもつれの解ける人間にならせて頂けたとき、
はじめて信心が分かったと言えるのではないでしょうか。

例えば、誰かが腹立ちや憎しみを自分の前に持って来た時、
こちらに信心がない間は、こちらにも腹立ちや憎しみの心が起こってまいります。

しかし、こちらに信心があれば、相手から腹立ちや憎しみを仕向けられても、
それを解かして、さらにはこちらの信心を相手に及ぼし、
信心にならせるだけの働きをすることが出来るようになる。

誰かが心配すれば、こちらも心配をするように、人の心というのは伝染するものです。
心配したり、腹が立つのが伝染するだけではなく、有り難い心も伝染するのです。

相手の心配や腹立ちがこちらに伝わるよりも強く、
こちらの有り難い心が相手に伝われば、相手の方から変わっていくのです。

真の信者(信心生活者)というのは、
信心が自分の生活となってそのような働きをするようになって来ることであります。

不足が出るところが不足が出ない。腹が立つところが腹が立たない。
わが心で自分の心の内から、有り難い心(信心)が湧き出るようになる。

火は自身が暖かいばかりでなく、周囲のものも暖かくします。
自身が明るいとともに、周囲のものまで明るくするのです。
信心する者も同様に、自身が有り難いばかりではなく、
人をも有り難い心にならせることが出来る。

難儀とは、信心を分からせて頂くために差し向けられるのです。
しっかりと味わわせて頂きましょう。

生と死

『死ぬということは、もみを臼(うす)でひいた時、
殻と実とが分かれるようなものであり、
時が来れば魂と体とが分かれるのである。』

人は誰でもいつかは必ず死ぬ。
しかし、いつその時が訪れるのかは誰にも分からない。
唯一つ言えることは、人が死ぬということは、
その人として一度は必ず出逢わなければならないことに
出逢われたということなのですね。

『殻と実とが分かれるように、時が来れば魂と体とが分かれる』
というのは、死は人生の最後に来るのではなく、
最初から時々刻々、常に生と離れずに付きまとっているということです。

ですから死の問題というものが生きることと別にあるわけではなく、
実はそれは生の問題であって、本当に良い生き方が出来れば、
それが同時に良い死に方にもなっているのです。

愛する人が亡くなることは、生きている者の心情としてはこれ程つらいことはなく、
これ程淋しいことはない。
しかし、信心の眼で見れば、死んだからといって、どこへ行くわけでもない。
目には見えなくとも、声は聞こえなくとも、共にこの時を生きているのです。

本当に『会う』ということは、相手が見えるかどうか、
相手と話すことが出来るかどうかではなく、ひとつとなって生きて行くということです。

同じ家に毎日一緒に暮らしている家族であっても、
顔を見るのも嫌だと言い合っているようでは、本当に会っているとは言えないでしょう。

亡くなられた方とでも本当に会える道がある。一緒に暮らせる道がある。
一心に信心させて頂けば、今まで死んでいた者が、皆そこに生き返るのです。

仕事をしているときも、台所に立っているときも、いつもそこに一緒にいる。
寝入るときには傍で優しく見守り、困った時には助けてもくれる。

御霊様に命を吹き込み、それだけのお働きをしてもらうには、
まずは自分自身が精一杯、前向きに本気の毎日を送らせて頂くこと。
そのとき人は本当に生きたと言えるのであり、亡くなられた方に対しては真の弔いともなるのです。

生きるということ

『日に日に生きるが信心なり』

「自分には、取り立てて心配な事は無い」と言われる方がおられますが、
どんな人でも突き詰めて考えてみた時に、
「これでもう安心だ」と言い切れるものなど、
実は何一つありません。

健康のこと、経済のこと、人間関係のこと、家族のこと。
どれ一つをとってみても、
これでもう心配はいらないと保証し得るものなど何も無いのです。

「何も言うことが無い」ということも、言ってしまえば、
今はたまたま異常な事態に出逢っていないというだけのことであって、
一度異常な事態が起きてくれば、その苦しみを背負って生きていかねばなりません。
元来、人間は、わが身がわが自由になるものでないのです。

だからこそ、今日の命を有り難く、
日に日に感謝して生きていくことが大切なのですね。

一日一日、日は経つ。
夜が明けて日が暮れる。
毎日が同じことの繰り返しのように思われるのですが、決して同じではない。
この「同じではない」ということが大切なことなのです。

しかし、仕事でも交際でも慣れてきますと、
一番大切な「同じではない」という思いが抜け落ちるのです。
一日一日、その時その時が新たなのだ。
決して当たり前ではない今この時を、
神様のおかげの中で生かされて生きているのだ。
その思いが抜け落ちてしまっては台無しなのですね。

一番大切なことは、その今日一日の生き方がどうなっているかということ。

出掛けて家に帰る時にも、今朝出た時よりも、
帰るときにはもっとよい私になって帰ろう。
そのような気持ちで一日を過ごさせていただく。

ですから、「ただいま」と言うことでも、
今までに何千、何万回と言った言葉かも知れませんが、
これまでに言ったことのない「ただいま」を心掛けていく。
そうすることで、一日一日の生活全体が、
だんだんとよくなっていく。有り難くなっていく。

 「生きる」という字は「生む」とも読みます。
日に日に感謝の心で喜びを生んでいく生き方こそ、
我々が求めているものなのではないでしょうか。

仕事で得られるもの

『日本でいちばん大切にしたい会社』で知られる、
知的障がい者雇用割合7割を超える、チョーク製造会社の日本理化学工業。

同社の会長であり、知的障がい者雇用を始められた大山さんは、
もともとは知的障がい者に理解がある方ではなかったそうですが、
あるご住職からの教えが、その後の人生を決定づけたそうです。

ある方の法要で禅寺を訪れた際のこと。ご祈祷がすみ、
食事の席でたまたま隣の座布団にご住職が座られました。
何か話しかけねばと思った大山さんの口をついて出たのは、こんな質問でした。

『うちの工場には知的障がいを持つ二人の少女が働いています。
施設にいれば楽ができるのに、なぜ工場で働こうとするのでしょうか?』

これは、大山さんがずっと考えていた疑問でした。
するとご住職はこのように答えられたそうです。

『人間の幸せは、ものやお金ではありません。
人間の究極の幸せは四つです。

 人から愛されること、
 褒められること、
 役に立つこと。
 そして、必要とされること。

愛されること以外の三つの幸せは、働くことによって得られます。
障がいをもつ人たちが働こうとするのは、本当の幸せを求める人間の証なのです。』

大山さんは思わず言葉を失ったといいます。
働くことが当たり前である健常者は、この幸せを意識することはない。
しかし、意識していなくとも、その幸せは心をずっと満たしてくれているのです。

そして、工場で働くふたりの少女が、どんなにつらくても、しんどくても、
必死になって働く理由がこの時はじめて分かったのです。

中世ヨーロッパでは、仕事のことを「コーリング」と呼びました。
コーリングとは、召命(しょうめい)、神様に呼び出されることです。
つまり仕事とはその内容を問わず、自らの使命を果たすようにと
神様から呼ばれ、与えられた「天職」なのですね。

「仕事」という字は、「仕」も「事」も「つかえる」と読みますが、
一体誰に仕えるのかと言えば、神様につかえるのです。

神様につかえる心で、与えられた仕事をまっとうする中で、人は幸せを得るのです。
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