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原因と共に結果も生まれている

『真にありがたしと思う心、
 すぐにみかげ(恩恵)のはじめなり』

無刀流を開いた剣術の達人であり、

熱心な禅修行者でもあった山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)にこのようなエピソードがあります。 

鉄舟が道場でいつものように道場で禅の教えを説いていると、

そのことを苦々しく思っていた若い一人の門弟が得意気に声を上げた。

「先生、今朝、私は家からこの道場へ通う途中で神社の鳥居に小便をかけましたが、

 この通り何の罰も受けておりません。神仏など迷信です。」

それに対し鉄舟は、間髪を入れず、

「この罰当たりめが!」

大声で叱りつけた。その門弟はびっくりしたものの、

「先生、どこに罰が当たっているのですか?」

となおも逆らいます。すると、鉄舟は静かに答えました。

「分からないのなら教えてやろう。いいか、神社やお寺の前を通るとき、きちんと礼拝できるのが、

 人間の教養というものだ。鳥居に放尿するなど、犬猫のする行為だ。

 お前は一人前の人間であり、しかも武士ではないか。

 武士たるものが、人間のすることさえできず、犬猫の仕業しかできないのが、

 どうして罰が当っていないと言えようか」

さて、原因と結果と言いますと、善い行いをすれば将来善い結果が生まれ、

悪い行いをすれば将来悪い結果が生まれるというのが通例ですが、

本当は、原因を作った時に結果も共に生まれているのです。

「ありがたいと思う心」があるから将来助かるというのではなく、

「ありがたいと思う心」になれた、それがそのまま最善最高の生活で、そこから後はそれが続いていきさえすればよいのですね。

「ありがたいと思う心」で神仏に手を合わせることができる。人に優しく接し、物を大切に扱うことが出来る。

「ありがたいと思う心」で善い行いができることそれ自体が、

喜ぶべき結果であることを忘れてはなりません。

全て神様のお差し向け

陶芸家の河井寛次郎(かわい かんじろう)の言葉にこのようにあります。

 鳥が選んだ枝
 枝が待っていた鳥

一つの木の枝に鳥が止まっている。

ただそれだけの風景ですが、鋭敏な陶芸家の眼は、

その風景を見たときに、深い感慨を抱いたのでしょう。

空を舞う鳥が空中から自分がとまる枝を探して、数多くの枝の中から一つの枝を選びます。

鳥は自分がその枝を選んでとまったのですが、

実は相手(枝)もその鳥を選び、枝にとまらせたというわけです。

このことを人間に置き換えてみると、どうでしょうか。

人との出逢い、仕事との出逢い、モノや言葉との出逢い。

偶然にもその時々で、自分が選び取ってきたように思えるのですが、決してそうではない。

すべて差し向けられたものなのですね。

信心をさせて頂くということは、自分と物事との間に神様を見出すことです。

自分の好き嫌いで物事を受けとめようとしないで、

起きてくることは全て神様のお差し向け、そこに自分にかけられた神様の願いを受け取ろうとするから、

「おこること みなよし」と思える自分にならせて頂けるのです。

現実を変えることが出来なくても、悩みに対する心の持ち方を変えることはできます。

過去の出来事を捨て去ることはできなくても、とらえ直すことはできます。

結局のところ、出来事自体には良い悪いはなく、受け取る側の心にだけ、良い悪いがあるのです。

良いも悪いもないのであれば、「すべて恵まれてのことなのだから」と、

神様から頂いた「ご縁」として有難く受け取る心を育てていきましょう。

そうすれば、どのような境遇に置かれても、人は幸せになれるのです。

わが計らいを去って神任せにせよ

『何事にも無理をするな。我を出すな。
 わが計らいを去って神任せにせよ。
 天地の心になっておかげを受けよ』

我というものは、一つの事にこびりついて動かぬものを言います。

物事に対しては、こうでなければならない。

人に対しても、こうあるべきだ。そのような拘りから、心配や腹立ち、不足の心が出てくるのですね。

人間関係を例にとってみますと、あの人はこうだ、こうあるべきだ、と決めつけてしまう心があるために、

その人のことで色々と困ったり腹を立てたりしなければならなくなる。


それがもっと広い心にならせて頂ければ、人を決めつけたりせず、

相手が何か自分にとって困ることをしたとしても、何故そういうことをしたのだろうか、

何か訳があるに違いないと、その周囲の事情や、相手の性格などを考えて、

十分に察することが出来るようになる。

一人の人間を相手どって、ああだこうだと責めないで済むようになるのです。

では、どうすれば「我」を出さないようになれるのか。

ここが肝心なのですが、そもそも「我」とは、

自分の力で生きているのだと勘違いするところから生まれてくるものです。

自分の力や努力のおかげでここまで来た。欲しいものを手に入れた。周囲の役にも立っている…。

「我」が無い人間はいませんが、一生懸命頑張る人ほど、「我」も強くなりやすいのです。

しかし、そのような「我」がある為に、

有難いという心になれず、本気で頭を下げることが出来ない。

さらに「我」のタチの悪いところは、その性質上、外からは決して壊せないことです。

それが故に、人から諭されようが、責められようが、

かえって一層「我」を募らすことになるばかりなのです。

ただ、そのような強力な「我」というものにも、唯一の弱点があります。

それは、教えを聞いて自分自身で詫びることです。

「我」というのは、自ら気付き、恥じ、詫びることによって、不思議と消える。

信心とは、自らの我を詫びていくことと言っても過言ではない。

そのために教えを聞くのですね。

一年一年ありがたく

『信心は、一年一年ありがとうなってくるのでなければ本当ではない。』

茶道を大成した千利休(せんのりきゅう)の歌にも、このようにあります。

「稽古とは 一より習い 十を知り 十よりかえる もとのその一」

一、二、三…と習い、十まで知ったならば一に戻って、

再びもとの一を習う時、習う人の心は全く変わっているものです。

端から見ればもとの一は同じように見えますが、

習っている本人にとってみれば、最初に習った時と異なっている。

このことが人の進歩につながるのであって、十を知り、もとの一に戻らぬ人は、それ以上の進歩は望めません。

元日とは暦の上での「一」ですね。新たな一年を迎えた感動の中で、「今年こそは」という願いを立て、

感謝と反省を胸に神仏に手を掌わせる。

そして、今日という一日を出来る限り大切に過ごそうとする。

そのような「元日の心」を毎日続けさせて頂くことが、そのまま信心となります。

ですから、元日の今日。この感謝の心持ちを、しっかりと味わい、保っていき、

そうしてどのようなことに出遭っても自分から離れないように心掛けることが大切です。

信仰上の修行というのも、もともとはそのためにあるのです。

木魚を叩いて念仏を唱えたり、断食をしたり、山に登ったり、川を渡ったり。

それらはすべて、その間に感じる、何とも言えぬ有り難い心を自らに覚え込ませ、

自らがそのように成り切るために、させて頂くことであります。

このお道では、体を痛めつけたり我慢したりする修行はありません。

その代わりに、「元日の心」を持ち続けることを修行とさせて頂きます。

あらためて一を習うと、その一が、きわめて新鮮になり、また違った経験が得られる。

そこから次に向けての工夫が生まれるのです。

日々させていただく信心生活が、一年一年、有り難いという想いが

増えていっているか、そうでないかが重要なのですね。
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