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湧かし出す力

お道の教えにこのようにあります。

『金の杖をつけば曲がる。竹や木の杖をつけば折れる。神を杖につけばよい。神は、曲がりも折れも死にもなさらない。』
何かをアテにして生きるというのは、ちょうど杖をついて立っているようなものであります。
お金を持ちたい、地位名声を得たいという心は誰にでもあるものですが、何故そういう心を持つかと言えば、お金や地位名声が無いと心細いからです。 
心細く、自分一人ではしっかり立っていられない気がするので、お金の杖、地位名誉の杖が欲しくなる。また、そのような心持ちでありますから、杖はなるべく多い方が安心で、それで他人の持っている杖でも、出来る限り自分の方に余計に取り寄せたくなるのです。
しかし、心細い心を杖でしっかりさせようと杖を増やせば増やすほど、自分の足で立とうとしないことから、人間はさらに弱くなっていくのです。
何もお金や地位名誉が悪いのではありません。ただ、それらをアテにして、その助けでしっかりしたいという浅ましい心が改まらない限りは、どうしても持っているものについて心配が絶えず、それを増やそうということにばかり心を痛め、そのために人と争いさえしなければならないことになります。
それではお金や地位名誉を持っている人は皆間違っているかと申しますと、決してそんなことはありません。中には本当の持ち方をしている人もおられます。それは、杖ではなく、枝として持っておられるのです。
杖は自身を支える為に外から借りてくるものですが、枝は自身の中から栄えて出るもの、湧き出るものです。自身の中から湧き出たものは、人から取っていかれる心配はありませんし、人に差し上げたとしても、自分が倒れてしまう心配も無い。
「神を杖につけばよい」との教えは、自分自身の中に、神様が居られるということ。外のものを頼りにして杖につかなくても、この自分の中には、湧かし出す力が与えられていることに気付かせる教えであります。その力にさえ目覚めれば、杖が無くても、心細い気がしないようにならせていただけるのです。

幸せ

『お天道様のお照らしなさるのもおかげ、雨の降られるのもおかげ、
 人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。
 人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである。』

信心をすれば一切の苦難が無くなるかと問われれば、

残念ながらそんなことは有り得ないでしょう。

人が人として生きていく以上は、色々な苦難にどうしても直面していきます。

しかし、事実として苦難がありながらも、そのことで心が苦しまなくなる。

その苦難の中にも「幸せ」を見出せるようになるのです。

過去の出来事を捨て去ることはできませんが、とらえ直すことはできます。

現実を変えることが出来なくても、悩みに対する心の持ち方を変えることはできます。

境遇は変えられなくても、生き方を変えることで人生の見え方が変わってくるのです。

たとえば天気一つで機嫌を損ねる人もおられる。そのような人は、雨の日には憂鬱で機嫌が悪い。

しかし、それは雨の有り難さというものに、自分の心が向かわないからです。

雨の日には雨の日なりの有り難さを自分の心に見出すことができたならば、

雨が降ろうが陽が照ろうが関係なく、いつも心は晴れ渡ります。

「○○さえあれば、私は幸せになれる」「○○にならないと、私は幸せになれない」

と思い込んでいる人は、その幸せが得られない限り一生幸せになれませんし、

他の幸せになかなか気付くことが出ません。

世の中には数え切れないほどたくさんの「幸せ」があります。

自分がすでにもっている幸せもたくさんあるし、これから出逢う幸せもたくさんある。

ただ、すべての幸せを得られるわけではなく、自分にはどうしても得られない幸せというのもある。

ただ、自分にも得られる幸せがこの人生には必ず準備されていて、しかもそれは一つや二つじゃない。

数え切れないほどたくさんあるのですね。

大切なことは、私たち一人ひとりがその幸せに気付くこと。それだけなのです。

自分が見えること

『自分を見ることを仕事とせよ。
 それよりほかに何もすることはいらぬ』
 (高橋正雄師)

「悩み」とか「苦しみ」というのは、それに対して本気で向き合わないと、

いつまでもそこから抜け出せないものです。

『あいつが悪い』、『こいつが悪い』といっている間は、自分の悩みや苦しみから、ほんの少し逃げているのです。

正面から悩みや苦しみを引き受けるのは、誰しもしんどいことですからね。

しんどいから逃げたくなる。

それで、少しでも逃げるため『あいつが悪い』と、誰かのせいにする。

誰かのせいにしておく限り、自分はその問題に正面から向かわなくていいわけですから。

たとえば、「これだけ私が、成績の悪いわが子のことを心配しているのに、

なんであの子は平気な顔をして遊んでいるのか」と思ったとしましょう。

すると人はたいてい、わが子にだけ問題があるのだと思うのですね。

しかし、実はそうではない。自分にも問題があるのです。

成績ばかり気にする自分。顔をみれば勉強、勉強と言って、子どもをうんざりさせ気力をなえさせてしまう自分。

いやもっと深いところに問題は隠されていて、それを引き起こしているのは、もしかすると自分かも知れない。

そうやって問題を自分のものにして見てみると、解決の糸口がいろいろ見えてくるのです。

それを『あいつが悪い』方式で、ただ怒ってしまうというのは、

働きもせずにお金持ちになりたいという発想に近いのですね。

自分を見ることが足りない間は、すべて人のせいにして、不足をそこに持っていってしまいます。

ところが、自分を見ようとするところから一大転換が起きるのです。

自分が見えることによって、相手だけが悪いと思っていたことが、

自分も相手も根本的には変わらないということに気付かされるのです。

そこから、相手の悪いところも許せるようになり、

また善いところもよく見えてくるようになり、物事が好転していくのです。

人に向かう心を神に向けよ

『人の心は移り変わりやすいものである。

 その、人を頼りにするから、腹を立てたり物事を苦にしたりすることになる。

 人に向かう心を神に向けよ。』


自分の心の内に、「認められたい」「理解してもらいたい」という相手への期待があるのに、その通りにならない。

それどころか非難までされる。

しかし、よく考えてみますと、世の中すべての人から認められ、理解してもらえる、

などというのは幻想ですので、そのような甘えや期待を捨ててしまえば、もっと楽に生きられるようになります。

「誰にも非難されない人」なんて歴史上一人もいなかったですし、これからもそのような人など出てきません。

意見を述べる者には必ず非難があり、どんな見解に対しても必ず反対意見が出る。これが現実です。

自分にとっての「好き」を語るということは、必ず誰かの「嫌い」を刺激することになる。

非難する相手は相手で、自分の意見と違う意見を聞いて、それなりに傷つき、

自分自身を納得させたいために攻撃的になっているのです。

それは世の中の仕組みで仕方のないこと。苦しいけれど、受け入れてしまいましょう。

沈黙していれば「むっつりしている」と非難され、たくさん話せば「うるさい奴だ」と非難され、

ニコニコしていても「何か裏があるに違いない」と非難される。

そのような人の心を頼りにしたところで、自分が苦しむだけなのです。

信心とは、何かに頼る心ではありません。

相手にこちらの思うように動いてもらおうとするのではなく、むしろこちらが相手の思うように動きたいと願うことです。

挨拶でも、親切でも、仕事でも、こちらからさせていただくところに人間の本当の幸せがあります。

本当の夫婦関係、友人関係というものは、お互いに頼ろうとはしないものです。

相手に頼ろうとしないで、むしろこちらが相手の頼りになろうとする。

そういう人間同士が一緒に生活をして、友人となり、夫婦となり、親子となった時に初めて、

それが本当に頼りになる関係となるのです。
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