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喧嘩が起こる訳は

我よしと思う心を仇として 戦いていけ 日ごと夜ごとに


何故、私たちは「怒り」を他人にぶつけ、

人を傷つけたり、争ったりしてしまうのでしょうか。

このことは、二人の人間が喧嘩をしている状態を考えると分かりやすい。

喧嘩が起こるのは、ひとりが「自分が正しい」と思っているところに、

もうひとりが「自分のほうが正しい」と主張するところに起こります。

お互い「自分のほうが正しい」と思い込んで相手に向かうものですから、

相手の言い分をまともに聞くことが出来ないのです。

そうして、相手の言い分をまともに聞けないために、お互いの溝がどんどんと深まっていき、

最終的には「怒り」の感情をあらわにした挙句、自ら人間関係を壊してしまうのです。

結局のところ、元を辿れば「自分のほうが正しい」と思うその心がそもそも正しくない。間違いなのです。

もしここで、「自分のほうが正しい」と思わないことが出来れば。

否、少なくとも「相手も正しいかもしれない」と思うことが出来れば、

相手の言い分をよく聞けるようになり、まったく違う道が見えてきます。

そもそも、「相手の言い分をよく聞かない」というのが喧嘩の面目ですから、

「相手の言い分をよく聞く」という喧嘩などは起こり得ません。

加えて、言い分をよく聞いてもらって怒る、ということも起こり得ないのです。

お互いに相手の言い分をよく聞き、ものごとを冷静に、客観的に見ていけば、

実はただそれだけですべてが解決してしまうことがほとんどなのではないでしょうか。

我よし、自分は正しいと思う心こそが自分の敵なのであります。

その思い違い、心得違いと戦っていくのが信心であります。

「自分の方が正しい」と思わない稽古を共々に進めさせて頂きたいものです。

生きる用意をせよ

曹洞宗の開祖である道元(どうげん)禅師に、弟子がこのように尋ねます。

「人間は皆仏性(ぶっしょう)を持って生まれていると教えられましたが、

仏性を持っているはずの人間に、なぜ成功する者としない者がいるのでしょうか?」

すると、道元はこう答えました。

「教えてもよいが、一度自分でよく考えてみなさい」

そこで弟子は一晩真剣に考えてみたのですが、やはり分かりません。

そこで再び道元禅師に尋ねたところ、このように答えました。

「それならば教えてやろう。成功する者は努力する。しない者は努力しない。その差である」

弟子はすっかり納得し、大喜びしました。

しかしその晩、新たな疑問が湧いてきました。

仏性を持っている人間に、どうして努力する者としない者が出てくるのだろうか。

そこでまた翌日、道元禅師にそのことを尋ねました。するとこう答えました。

「努力する者には志がある。しない者には志がない。その差である」

弟子はまた納得し、喜んで帰りました。しかしその晩、またまた疑問が湧いてきます。

仏性のある人間にどうして志がある者とない者があるのか。弟子はまた尋ねます。するとこう答えました。

「志のある者は、人間は必ず死ぬということを知っている。

 志のない者は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない。その差である」


何事も成功するには、志を持ち努力する必要があるが、そのためには死というものを知る、

つまりこの人生が有限であるという、切実さを持たなければならない、そのように弟子に諭したのであります。

お道の教えに『死ぬ用意をするな。生きる用意をせよ』とあります。

死に対する覚悟とは、安心して死ぬために定めるものではありません。

死に対する覚悟がなければ、生きている間も何事に対しても覚悟が定まらないから、

死に対して覚悟を定める必要があるのです。

切実に全力を尽くして今日という日を送るなら、

死ぬという事実もいつかの今日の出来事でしかなく、悔いは無い。

そういう生きる用意をしたいものです。

時節のお繰り合わせ

『厄日に風が吹いても倒れさえせねば、
 吹かなかったと同じであろう。信心していれば、どこにどのような風が吹いておろうとも、
 吹く風に時を嫌わして下さる。
 たとえ風が当たっても、おかげの風にして下さるぞ。
 ご信心さえしていれば、厄年も
 無常の風も恐れることはない。厄年がかえっておかげの年になる。』


「自分には、取り立てて心配な事は無い」と言われる方がおられますが、

どんな人でも突き詰めて考えてみた時に、「これでもう安心だ」と言い切れるものなど、実は何一つありません。

健康のこと、経済のこと、人間関係のこと、家族のこと…。

どれ一つをとってみても、これでもう心配はいらないと保証し得るものなど何も無いのです。

「何も言うことが無い」ということも、言ってしまえば、

今はたまたま異常な事態に出逢っていないというだけのことであって、

一度異常な事態が起きてくれば、その苦しみを背負って生きていかねばならない。

元来、人間は、わが身がわが自由になるものでないのです。


「無常の風」とは、諸行無常という仏道の教えです。

一切の形あるものは、常に変化していく。風が花を散らすように、人間の命も無常が奪い取る。

無常の風は時の良し悪しなど待ってはくれません。

そのような過酷な現実に対し、この道では、「時」の流れの中に神様の計らい(ご時節)があると説きます。

ご時節のお繰り合わせを頂いたら、「無常の風は時をきらわぬ」と嘆くことはない。

この世がたとえ諸行無常であっても、人間を生かし育んでくださっておられる親神様のおかげを受けて生きるという、

人間の依るべき根っこをしっかりと掴んでいれば安心なのです。

「信心する者とせぬ者とでは、親のある子とない子ほど違う」という教えも、

そのような親神様のお働きを指しておられるのだと思うのです。

勤めるべき役

『これほど信心するのに、なぜこういうことが起きてくるのだろうかと思えば、

 もう信心はとまっている。

 …これはどこまでも私の勤めるべき役であると思って、

 信心をしていかなければならない。そこからおかげがいただける。』


御霊地で修行させて頂いていたときのことです。

朝の御祈念に参らせて頂く道中、前を歩く先生の足元がたいへん腫れておりましたので、

「どうされましたか」と尋ねたところ、「神様に叱られました」と。

「どうされましたか」という私の質問は、足の腫れの原因が病気によるものなのか、

何か事故に遭ったのかということを尋ねているのです。

それに対して、その先生は足の腫れを信仰的に捉えて、自分の生活態度、心掛けの問題を反省したところから、

「神様に叱られました」と答えられたのです。これにはたいへん感銘を受けました。

今日では医学知識が一般化し、足が腫れた場合にも、何故そのような腫れが生じているのか、

どのような処置をすればよいのか等ということは、大方見当がつきます。

しかし、ただ単に病気やケガを知り、手当てをするだけでは、

その病気やケガをわずらっている人間が助かることにはならない。

愚痴や不満に陥ることにとどまって、人間の助かる生き方は生まれて来ないのです。

災難についても同じことです。

起こり来る事態について、自分と神様との関係を離れて、ただ災難とだけ捉えたのでは、

人間が生きていくうえに助かる生き方は開かれてこないのですね。

病気なら病気のままに、そのことを自分の勤めるべき役として、

その病気をしっかりと味わい、そこで自分の生き方を見つけていく。

病気になったおかげで、健康なときにはわからなかった人生の別の意味がわかり、

他者の病苦が察せられるところから、本当の意味で病人を慰めることができる。

自分はそのためにこそ病気になったのだ、そう思えるようになった時、

失ったものより遥かに大きなものを手にしたことになるのです。
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