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言葉は心の足音

平成二十一年に百一歳で亡くなられた臨済宗の禅僧、

松原泰道師は、『言葉は心の足音』と説かれていました。

思わずハッとされられる言葉ですよね。

私自身のことで考えてみましても、心が乱れている時には

自然と言葉も乱れていることに気付かされます。

怒っている時やイライラしている時などには乱暴な言葉を使い、また乱暴な口調になっている。

また逆に、嬉しい時や楽しい時には自然と柔和な言葉、柔和な口調となっている。

そのように自分自身の感情が言葉として音となって表れるので、松原師は「心の足音」と説かれたのでしょう。

自分自身の心というのは、はっきりとは見えず聞こえず、

それがゆえに見失いやすいものでありますが、心の足音、自らの言葉であれば、

しっかりと我が耳に聞くことが出来るものです。

かつて日本は「言霊の幸わう国」と呼ばれていました。

「言霊」とは言葉に宿る霊(たましい)の働きのことであります。

言葉とは「ことの葉」、葉はものを包むものですから、

言葉という風呂敷に、自分の一番綺麗な霊(たましい)を包んで、人に差し上げるのが本来の姿なのですね。

それではじめて、言葉を渡した者も、言葉を受け取った者も喜び幸わう。

ともに幸せになれるのです。


本当に良い言葉を出すには、その心掛けで毎日やって行かねばなりません。

毎朝の「おはよう」から信心が始まるのです。

これまで言ったことのない「おはよう」の言葉を、親に対し、妻に対し、子どもに対し、心掛けていく。

そこから一日の信心が始まるのです。

その信心から出る言葉の一つひとつが、私たちの生活を幸わうものにしていく。

そこに神様がお働き下さるのです。

自分だけの為ではありません。良い言葉は良い言葉を生んで来るものですから、

周囲の人々をも助けることに繋がっていくのです。

普段何気なく使っている言葉の中に、どれだけの愛と祈りを込められるか。

そこのところを、共々に取り組ませて頂きたいと願います。

信心の稽古

『信心は、一年一年ありがとうなってくるのでなければ本当ではない。』


茶道を大成した千利休(せんのりきゅう)の歌に、このようにあります。

 「稽古とは 一より習いて 十を知り 十よりかえる もとのその一」

一、二、三…と習い、十まで知ったならば一に戻って、再びもとの一を習う時、

習う人の心は全く変わっているものです。

端から見ればもとの一は同じように見えますが、

習っている本人にとってみれば、最初に習った時と異なっている。

このことが人の進歩につながるのであって、十を知り、もとの一に戻らぬ人は、

それ以上の進歩は望めないのですね。

では、信心の「一」とは何なのか。

それは、人によってそれぞれ違います。

このお道に入るきっかけとなった、心の底から「ありがたい」と思えた、その原体験こそが「一」なのだと思うのです。

その「ありがたい」心を忘れることが無いように、日々、感謝と反省を胸に神仏に手を掌わせる。

そして、今日という一日を出来る限り大切に過ごそうとする。

それを毎日続けさせて頂くことが、そのまま信心なのだと思うのです。

信仰上の修行というのも、もともとはそのためにある。

木魚を叩いて念仏を唱えたり、断食をしたり、山に登ったり、川を渡ったり。

それらはすべて、その間に感じる、何とも言えぬ有り難い心を自らに覚え込ませ、

自らがそのように成り切るために、させて頂くことなのです。

このお道では、体を痛めつけたり我慢したりする修行はない。

その代わりに、「ありがたい」心を持ち続けることを修行とするのです。

あらためて一を習うと、その一が、きわめて新鮮になり、また違った経験が得られる。

そこから次に向けての工夫が生まれるのです。

日々させていただく信心生活が、一日一日、一年一年、有り難いという想いが増えていっているか、そうでないか。

ここのところを、信心の標準とさせていただきましょう。

あるもの みな美しく

『あるもの みな美しく、

 おこること みなよし(高橋正雄師)』


信心をすれば一切の苦難が無くなるかと問われれば、

残念ながらそんなことは有り得ないでしょう。

人が人として生きていく以上は、苦難にどうしても直面していきます。

色々あるのが人生というものです。

しかし、事実として苦難がありながらも、そのことで心が苦しまなくなる、

その苦難の中にも「ありがたい」と思える心が生まれてくることが信心なのです。

そして信心をさせて頂くということは、

自分と物事、自分と周囲の人々との間に神様を見出すことです。

自分の好き嫌いで物事や人を受けとめようとしないで、

起きてくることは全て神様のお差し向け、そこに自分にかけられた神様の願いを受け取ろうとするから、

「あるもの みな美しく、おこること みなよし」と思える自分にならせて頂けるのです。

現実を変えることが出来なくても、悩みに対する心の持ち方を変えることはできます。

過去の出来事を捨て去ることはできなくても、とらえ直すことはできます。

結局のところ、出来事自体には良い悪いはなく、受け取る側の心にだけ、良い悪いがあるのです。

ある人にとってはとても良い人、良い物、良い出来事であり、

ある人にとってはとても悪い人、悪い物、悪い出来事でもあるのです。

良いも悪いもないのであれば、

「すべて恵まれてのことなのだから」と、神様から頂いた「ご縁」として有難く受け取る心を育てていきましょう。

そうすれば、どのような境遇に置かれても、人は幸せになれる。

境遇は変えられなくても、生き方を変えることで人生の見え方が変わるのです。

有難く受け取ったその第一歩が幸せな人生へと通じている。

ですから信心する人は、神様から差し向けられた今の一瞬一瞬を、

嬉しく楽しく有り難く生きていくことが大切なのです。

幸せの帽子

仏教詩人として知られる坂村真民さんの詩に『幸せの帽子』というものがあります。

すべての人が幸せを求めている

しかし幸せというものは

そうやすやすとやってくるものではない

時には不幸という帽子をかぶってやってくる

だからみんな逃げてしまうが

実はそれが幸せの正体だったりするのだ

わたしも小さい頃から

不幸の帽子をいくつもかぶせられたが

今から思えばそれがみんな

ありがたい幸せの帽子であった

それゆえ神仏のなさることを

決して怨(うら)んだりしてはならぬ


一見「不幸」に見えることの中に、神様の願いがどれだけ込められているかということを考えさせられます。

プラスを感謝することなら誰でも出来るでしょう。

しかし、苦悩や絶望といったマイナスの淵にあって、「ありがとうございます」と

手を合わせることが出来るのが信心のありがたさであります。

苦悩や絶望が縁となって、神様の願いに気付かせていただき、真の生き方に目覚めるのです。

そこから自然と手が合わさるようになる。


お道の教えに、このようにあります。

『神は、人間を救い助けてやろうと思っておられ、このほかには何もないのであるから、

人の身の上にけっして無駄事はなされない。信心しているがよい。みな末のおかげになる。』


神様は人間の親であります。親は、たとえ子どもが親の恩を分かっていなかったとしても

子どもの世話をし続け、心配をして下さいます。

そして、子供の至らないところは、改まり成長できるよう、

祈りに祈りながら長期に亘って時節を待って下さいます。

私たちが逆境の中で「助けて下さい」と神様に祈る遙か前から、実は神様が祈って下さっているのです。

最善、最高、最適の神様のお働きの中で、生かされ生きていることを忘れてはなりません。
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