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まずは自分自身が有り難い心に

信心というものを一言で表すならば、「有り難い」と思う心持ち。それに尽きます。

世の中の一切の出来事、人との間柄というのは様々ですが、

それらが信心の稽古をさせて頂くことによって、だんだんと変わってくる。

良くなってくる。

そして心から「有り難い」と思える様になってはじめて、

本当に幸せになれたと言えるのではないでしょうか。

では、そこでもう一つ進んで、周囲の人間を幸せにするとはどういうことか。

例えば子供に対して、何をしてあげることが、一番その子供を愛するということになるのか。

欲しいというモノを買ってあげたり、行きたいと言う場所へ連れていってあげることも、愛することには違いありません。

けれども、その子供自身がどのような事に出逢っても「有り難い」と思える人間になれた時こそが、

子供の一番の幸せなのですから、そうなれるように、

つまりは子供の信心が進むようにしてあげることこそが、

親として一番子供を愛することになるのです。

目に見える財産を残すことよりも遥かも大事なこと。

事に当たった時に、いつでも「有り難い」と思える人間に子供を育てることが出来たならば、

親として、それが一番安心であろうと思う。

いくら学歴や収入が高くなっても、

心の内に有り難いという心を植え付けてあげることが出来なければ駄目なように思うのです。


そのように、我が子に対して、

また誰に対してでも、人を愛して大切にする道とは唯一つ。

それはどうすれば出来るかと言えば、

まず自分自身が有り難い心持ちの人間になること。これしか無いのです。

私が不平不満ばかりであって有り難いという気持ちでなかったら、

いくら子供にそういう心持ちになれと言っても、それは子供には伝わらないでしょう。

いい加減に聞くのが当たり前です。

ところがもし私自身に「有り難い」という心が定まっていれば、

口では何も言わなくとも、きっとその心は皆に響くと思うのです。

まずは自分自身が有り難い心になること。

そうなれば、自分自身が幸せになり、周囲の人をも愛することになるのです。

許す心を学ぶ

『神様は人間の親様である。
 信心をする者は、一生死なぬ父母に巡り合い、おかげを受けていくのである』

他の人間が自分のことを本当に愛してくれている、

どんなことがあっても最後は自分のことを許してくれると信じ切れるところに人が助かる道がある。

小さい子供が育って行くのは、親が許してくれるからなのです。

親から許してもらえない家庭は子供にとっては地獄であり、

そういう家庭では子供は真っ直ぐ育っていくことが出来ません。

育てるとは許すこと。子供の立場に立って解釈してやること。

それが土台にあってはじめて、叱ることにも意味が出てくるのです。

仮に子供が何か失敗をしたとしても、その失敗には何か訳があるのだろうと、

親は子供の立場に立って解釈してくれる。その優しさが子供を育てる、落ち着かせるのです。

この「許し」なくして、子供は真っ直ぐ成長出来ません。

それは人を信じることを知らない為です。

人を信じることが出来ない為に、非行に走り、道を誤るのです。

最近では「親バカ」を通り過ぎた「モンスターペアレント」が横行し、大変な問題となっていますね。

何事も行き過ぎは善いものをも悪くしてしまうのですが、親は子の為に狂うところがある。

何故かと言えば、それだけの働き、間柄をこの天地がはじめから親と子に与えているのです。

そして、親が子を許すことで、子は助かる。

そうして、その子どもは自分と他人を許せる大人へと成長していくことが出来るのです。

同じ親でも、神様は人間よりも遥かに気が長く、心が広い。

責めるところが一切無い為に、ものを言われることもないのです。

信心とは、神様が自分を愛し、許して下さる親である事を知り、

神様がいつも自分に寄り添って、共にこの人生を生きて下さっていることに気付くことなのです。

そのような神様の許す心、慈悲の心を学び、実践していくことが大切なのです。

幸せとは誰のもの

人は何故勉強しないといけないのでしょうか。

良い学校へ入って、立派な社会人になるため?

では、「立派な社会人」って何なのでしょうか?

立派な会社に入り、立派な家に住んで、立派な車に乗って、

華やかな生活を楽しむことが立派なのでしょうか。

子供に「何故勉強しないといけないの?」と聞かれて何と答えるか。

大人はこの辺りのことをしっかり考えておく必要があります。


「願い」という言葉の語源は「ねぎらい」であるそうです。

「ねぎらい」という言葉を辞書で引きますと、

「相手の努力に対して感謝の意を表すこと」とあります。

つまり、「貴方様のお陰でございます。

いつもありがとうございます」と、感謝の気持ちを込めてお礼を言うこと。

これがねぎらいであり、神様に願うことの本質は、正にここにあるのです。


しかし現実には、「願い」というものが、ただ神様に、

自分にとって都合の良い御利益を願っているだけというのが大半なのではないでしょうか。

繰り返し申しますが、何の為に神様に手を合わせに行くのかと言えば、

本来はお礼を言う為に行かせて頂くのです。

誰にお礼とするかと言えば、神様、

そしてお世話になっているすべてのものにお礼が必要なのです。


普段当たり前だと思って過ごしていること。

目が見える、耳が聞こえる、話すことが出来る、食べることが出来る、歩くことが出来る…。

多少の不足を抱えながらも、こうして日々生かされている「いのち」にお礼を申すことが信心の土台となるのです。 

そして、すべてのものにお世話になって生きているのが人間ですから、

人のお役に立つ為の為にこそ勉強するのです。

そして自分に恵まれた力を最大限発揮して、より人のお役に立つ為に、

自分にとってより良い学校や仕事に就かせて頂くのです。 

人間の幸せとは決して自分だけのものではありません。

真に教養のある人とは、自分の喜びを他人に分けてあげられる人のことを言うのです。

そうしてお礼を申す気持ちを先に立てるところに、神様がお働き下さる。

足りぬだけの分は神様が足して下さる。ですから人は願うことで助かって行くのです。

共生

『信心は家内に不和の無きが元なり。』

数ある教えの中でも、この教えを体現するのは難しいことですよね。

考えてもみますと、私たちが生きていく上で中心となる家庭という集団は、

生まれてみたら、それが自分の家庭であり、

物心ついたら、それが自分の親であり、兄弟であり、親族であった、

という中で共に育ってきただけに過ぎません。

自分の意志でないところで成り立っているだけに、

それぞれに性格も能力も考えも皆違いがあって当然なのです。

さらには、年齢や育った世代の違いから来る、生活様式や価値観の違いを持ち込んでおり、

一様には行かない複雑な要素を抱えているのが家庭なのですね。

その家庭の中核にある夫婦の関係というのも、

結婚するまでは別々の生活環境の中で育ち、別々の性格や感情を持った者が、

途中から夫婦生活を始めるわけですから、そもそも「一心同体」などではないわけです。

元々「二心二体」であるものを、夫婦になった以上、一心同体でなくてはならぬ、

そのようにあるべきである、などと勘違いするところから、夫婦の争いが起こってくるのではないでしょうか。


ですから、少し見方を変えてみてはいかがでしょうか。

つまり、本来平和があるのでなく、あるものは不和なのです。

もともと不和があって、放っておいても何とかなるような

甘いものではないと心得ることが肝心なのです。

しかし、私たちが幸せになるためには平和が必要ですから、そこに道を求め、

信心させて頂くことによって、日々の生活の中に、人間関係の中に、家庭の中に

道の働きを現せる人間にならせて頂くことが大切なのですね。

インドの初代首相ネルーは、「共生」という言葉を政治の世界にいち早く取り入れた人物ですが、

彼は「共生以外の唯一の道は、共に破滅することである」と断言しています。

違う生き物が、お互いに助け合い支え合って生きているということを心得なくてはなりません。
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