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真一心の心

『神は宮社(みややしろ)に鎮まり納まっておられるのではない。

 真一心の心に神がおられて、おかげになるのである。』

中村久子さんは、明治三十年に生まれ、

難病による両手両足の切断という重い障害を抱えながらも、

七十二年の人生をたくましく生き抜いた人物として知られています。

生活苦のため自ら見世物小屋に入り、「だるま娘」として二十三年間も好奇の眼にさらされながらも、

彼女は独学で読み書きを覚え、本を読んで教養を身に付け、結婚に出産、そして育児までをも立派にこなしました。

両手がなくとも、料理も作り、裁縫までして生計を立てたのです。

「奇跡の人」として知られるかのヘレン・ケラーが来日して彼女に初めて面会した際、

「私より不幸な人、そして偉大な人」と涙を流しながら言ったというエピソードはあまりに有名です。

晩年は全国を講演して回り、障害者をはじめ病に苦しむ多くの人々に勇気を与え、励まし、

「いのち、ありがとう」を口癖に、常に感謝の心を忘れませんでした。


しかし、そんな彼女にもただ一つだけ両手が無くて残念なことがあったそうです。

それは、合掌ができないということでした。

合掌と言えば、両手を合わせて頭を下げる。

形の上ではただそれだけのことでありますが、単に社交で頭を下げる低頭や、

手を握り合う握手とは違い、相手の地位や身分を尊敬するのではありません。 

そこに神を拝む心があってはじめて合掌となるのです。

「どうぞ、あなたの中の神がお働き下さり、幸せな人生を歩んで行けますように」

と念じて両手を合わせる。それが合掌するということなのです。

中村久子さんはきっと、実際には合掌は出来なくとも、

周囲の人々に対し心の中でいつも合掌を捧げられておられたに違いありません。

彼女に助けられた人々の存在こそが、そこに神がお働きになられた何よりもの証なのですから。

生かされ生きる一人である

平成二十二年に百一歳で亡くなられた臨済宗の禅僧、松原泰道師は、

百歳を過ぎてからも執筆や講演を精力的にこなし、

亡くなる三日前まで「生涯現役 臨終定年」を実践された現代の名僧として知られています。

その松原禅師がご在世中の話ですが、ある老婦人が禅師に対し、このように言いました。

「私は電車に乗って外出する際、なるべくラッシュ時を避けるようにしています。

 若い方が席を譲って下さるのはありがたいのですが、ご迷惑をおかけすることになるので…」と。

なんとも心優しい老婦人の言葉でありますが、それに対し禅師は、

「そんな気配りはやめた方がいいですね」

と冷ややかにつっぱねます。続けて、

「そのような時、あなたは心の奥底から『ありがとうございます』と感謝の思いをこめて

 お礼をそのお方に言って腰をおかけなさい。

 好意を素直に頂くことが、礼儀ではないでしょうか」

このように諭されたそうであります。

私たちは幼い頃から、学校や社会で「他人には迷惑をかけるな」と教えられて育ってきました。

しかしそれが不可能な事実であるということは、よくよく考えてみれば分かります。

不完全で欠点があるのが人間であり、そうした人間どうしが集まって、

互いに支え合い、迷惑をかけ合い、生活しているのが私たちの社会であります。

それならば、「私は他人には迷惑をかけません」と

肩肘を張るよりも、「誰かに迷惑をかけずには生きられない私である」と、

謙虚さと感謝の気持ちを持つべきではないでしょうか。

「人間は決して一人では生きられない、人間は他に迷惑をかけなければ生きられない、弱い存在である」

ということを、大人は子に伝えるべきなのです。

個人の力には限界があることを知らなければ、行き詰まりを感じた時に死を選ぶしかありません。


気配りよりも大切なこと。それは、この天地の中で他に支えされ、

他に迷惑もかけ、生かされ生きる一人であるという事実に、感謝の思いを向けることなのです。

人の本質

『人が人を助けるのが人間である。
人間は、子供がころんでいるのを見て、
すぐに起こしてやり、また水に落ちているのを
見て、すぐに引き上げてやることができる。
人間は万物の霊長であるから、自分の思うように働き、
人を助けることができるのは、ありがたいことではないか。』

中国・清の第五代皇帝の雍正(ようせい)は、

国と人民のために寝食を惜しんで働いたことから、中国史上最も勤勉な皇帝とも言われています。

その雍正が学問をするうえで最も大切にしたことが、「自得(じとく)」という言葉でありました。

自得とは「自己を得る」。つまり、「自らを知る」ということですが、

雍正は自得園という別邸まで建てて、自らを知ることに真剣に取り組んだそうです。

自得の大切さは、なにも東洋だけの考えではありません。

ソクラテスも「汝、自らを知れ」。

ゲーテも「人生は自分探しの旅だ」と言っています。

考えてもみますと、私たちは学ぶことにせよ、働くことにせよ、

名を成そう、人から賞賛されよう、とばかり考え躍起になるものですが、

そこに執着するあまり、自己というものを見失いがちであります。


しかし誤ってはならないことは、

人は社会的に何かを成し遂げたから偉いのではなく、

その人に与えられている生命自体が尊いのです。

自らを知るとは、その自らの生命に託された「願い」を知るということ。

何をするかという手段ではなく、人間とは何かという根本を知ることです。


『人が人を助けるのが人間である』ということは、

私たちが学ぶこと、働くこと、

活動すべての中心に「人を助ける」ということを置けば間違い無いという教えなのですね。

つまり、学ぶということは、自らを高めて人の役に立つために学ぶのであり、

働くということも、自らの身体、能力を用いて人が助かることをするために働くということになります。

自得とはこのことを悟り、実行して行くことであり、

自得した者が成す仕事とは、その職業が何であれ、自他ともに幸せをもたらす仕事となるのです。

必ず道は開けていく

『身の上のことは何事でも、実意をもって願え』

戦前の話になりますが、金光教和歌山教会の初代教会長である沢井光雄師のもとに

ある警察官が来られたときのことです。

「ここではどんな事でも神様に願ってよいと教えているようだが、

 それでは泥棒をするということを願ってもよいのか。

 そういう不埒な願いに対しても、願いを叶える神様なのか」

とその警察官が尋ねたところ、

沢井師は

「はい、泥棒することでもお願いしたらけっこうです」

と答えられました。

それに対し、

「そんなバカな神様があるものか!」

と警察官が怒鳴ったところ、

「いいえ。そういうお願いをしてもよいのです。お願いをすれば、

 泥棒をしなくても済むようなおかげを頂かして下さるのが神様であります」

と答えられたそうです。

さて、よく宗教というと、

「あれをしてはならない」

「これを食べてはならない」

「こんな願いをしてはならない」

などといった戒律やタブーがいくつもあって、それを破ると罰が当たるなどと言われる方もおられるようですが、

本当に正しいこと、良いこと、道筋に合ったことしか神様へ願えないのだとしたら、

難儀に苦しむ人に助かる道はありません。

「実意をもって願え」とは、

心から願ったなら、後は神様にすべてお任せをするということです。

「お任せする」というのは、ただ頼るだけで何もしないということではありません。

「頼る」というのはただ甘えることですが、

「お任せする」というのは、人間として出来る限りのことをして、

その上は神様に任せて、あれこれ思い煩わないということであります。

どうにもならないことを自分の力でどうにかしようと思うと、解決がつかず、ますます苦しくなります。

ですから、どうにもならないことはまな板の上の鯉のように自分を神様にすべて投げ出し、お任せする。

自分の力でどうにかしようという我を捨てる。 

そのように神様に任せきり、凝り固まった自分の我を放れることができれば、物事は自然に好転していくものです。

必ず道は開けていくのです。
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