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正しい処で待つ

『子の頭を叩くより、親である自分の頭を叩けば、すぐおかげになる』

鹿児島・薩摩にはかつて「郷中(ごちゅう)教育」と呼ばれる、

武士階級の子弟教育法がありました。

その特徴は、町内の子供たちの中で一つの組織をつくり、

年長者が若年者の先生役として指導するというものですが、

その指導方法とは言葉によるものではなく、行動によって手本を見せるというものでした。


そして、あの西郷隆盛も、この独自の教育方法の中で育った一人なのです。

その西郷が鹿児島に私学校を開校するにあたり、

校長には、西郷と同じ郷中に育った後輩である篠原国幹(しのはら くにもと)を選び、その教育を託しました。

さっそく篠原は私学校の教育体制を整えようと考え、西郷にこう尋ねます。

「私学校の校則はどのようにしましょうか?」

すると西郷は篠原をじっと見返し、一言言いました。

「お前が校則になれ」

生徒は教師を見習うものですが、その教師が見習うのはその上司である校長に他なりません。

校則を条文として書くことよりも、まずは自ら模範となってやってみせよ、そのように西郷は諭したのです。

家庭でも会社でも、自分が上に立ってみると、相手を指導するにも自分の権限を利用して、

ついつい言葉に頼ってしまいがちです。

そして偉そうに言う割には自分も出来ていなかったりすることがあるので、相手にも本当に正しいことが伝わらないのです。

言葉で言うのは簡単ですが、いざ行動に現すとなると大変難しい。それは相手も同じことです。

誰かと待ち合わせするのでも、自分が間違った場所にいては、

いつまでたっても相手と会うことは出来ないでしょう。

自分が約束通りの正しい場所で待っているのであれば、

たとえ相手が遅れたとしても、いつかは必ず会えるものです。

相手に正しい処に来て欲しいと願うならば、まずはこちらが、正しい処で待つことが大事なのです。

おそれ

『人間は、財産ができたり、先生と呼ばれるようになると、頭を下げることを忘れる。

信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。

とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。

天は高いから頭を打つことはないと思うであろうが、油断をするな。慢心が出るとおかげを取りはずす。』


人間の性(さが)とは悲しいもので、金を持たない者が多少の金を持つようになると、

金を持たぬ者を見下す心持ちになる。

大きな会社に勤めれば、小さな店を侮って見るようになる。役職に就けば、

今まで同輩であった者に対して、尊大な態度で接するようになる。

人間の自己顕示欲が、競争社会の中で勝ち得た優越感から、醜い相として現れるのです。


かつて経営の神様と呼ばれた松下幸之助は、

「豊臣秀吉もナポレオンも素晴らしいリーダーであったが、二人とも幸せな晩年を迎えることはできなかった。

それは、おそれるものがなかったからだ」と部下に教えたそうであります。

実業会において、怖いものがないほど登りつめられた松下幸之助が教えた「おそれ」とは、

ただ何かを怖がるというような意味ではなく、

神仏を畏れ敬い、人間の欲望を畏れ慎むという意味が込められていたのではないかと思うのです。

いくらお金を稼げるようになったからと言って、

また、いくら人としての生き方が分かったからと言ったところで、

自分の思いや行いが百パーセント間違い無いなんてことは有り得ません。


気を抜けば、怠け心が起こる。傲慢になる。人を見下したりもする。

そうなってしまう自分の弱さが怖い。

また、そのような傲慢を許さない、この天地を貫く道理、働きというものが怖いのです。


幸せや成功があるのは決して自分の力からではない。

もともと何の力も無い自分が、この天地に生かされて、人のお役に立たせて頂いているのであります。

何事も「させて頂く」ことである、ということを忘れてはなりません。

本気の毎日を送る

『昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しめ』


作家で詩人の高見順さんの晩年の話であります。

食道がんのために病床に横たわっていた時、

ふと窓の外を見ると、激しい風雨のなかを少年が新聞を配達している姿が見えた。

その姿に胸を揺さぶられ、次の詩を書かれたそうです。

なにかをおれも配達しているつもりで
今日まで生きてきたのだが
人びとの心になにかを配達するのが
おれの仕事なのだが
この少年のようにひたむきに
おれはなにを配達しているだろうか
 
ひたむきな新聞配達の少年の姿が晩年の作家魂に火を灯したのであります。


私たちの心に火をつけ、生きる力を与えるもの。

それは、決して見た目や才能ではありません。

よいことでも、わるいことでも、人間が重大なことにぶつかって、

その人の本気が出ている時というのは、人を惹きつける力がある。

そこに人間の真(まこと)、本体が現れ出ているからです。


毎日を本気で生きていこうとするならば、感謝を中心に置かなくては続きません。

人間にとって感謝にまさる生き甲斐はないのです。

地位があっても、金持ちであっても、感謝できなければ決して幸福とはいえません。

今日一日、自らに与えられた仕事を精一杯に喜んでさせて頂けるかどうか。

後で振り返って、今日一日よかったなぁと生き甲斐を感じ、幸せを思うかどうかが一番肝心なことであります。

火は自身が暖かいばかりでなく、周囲のものまで暖かくします。

自身が明るいとともに、周囲のものまで明るくするのです。

人も同様に、自身が感謝で本気の毎日を送るなら、

その周囲にもそのような人や出来事が増えていくことになる。

それが道にかなうということです。

自分が見えていればこそ

人生というのは何事も思い通りに行くものではない。

そのことは誰もが知っていることでしょう。

そして、何か一つの思いが叶ったとしても、また一つ思うことが増える。

一つの欲が満たされれば、また次の欲が起こる。

ですから不平や不足というのは言い出せばキリが無い。

このことも誰もが知っていることでしょう。


しかし、それらのことが頭で分かっていると言ったところで、

不足を言うのを止めるのは大変難しいことです。

それだけ、「不足の根」というのは、私たちの心に大変深く根付いているのです。


その他の根、腹立ちや心配や恨みや疑いなど、

色々な困った心持ちの根というのも同じで、自分の力でどうにかしようとしたところで、

たとえ表面上は取り繕うことが出来たにせよ、根を断つことは出来ません。

根が残っている以上、何かの拍子で必ず表に現れてくるのです。


そこで、このお道では信心を通して、「自分を見よ」と説いているのです。

自分をしっかりと見て行けば、不足を言わない、

腹を立てまいと心掛ければ心掛ける程、不足に思い、腹を立ててしまう、

どうしようもない私であるということが分かり、

自分の力ではどうする事も出来ない私であるということが得心出来る。

そこで自分を見直さざる得なくなる。その時はじめて一筋の光明が指すのです。


不平や不足が起こるというのは、自分を良しとし、

これ位のことはしてもらって当然だと思う気持ちが必ずどこかにあるのです。

そのような思い上がり、勘違いが砕かれたとき、不足の根も断たれるのです。


また、自分が見えることによって、相手だけが悪いと思っていたことが、

自分も相手も根本的には変わらないことが分かるところから、

相手の悪いところも許せるようになり、また善いところもよく見えてくるようになります。

自分が見えていればこそ、他の人が悪いところを出しても、

それが我が内にもあることを知っているから、簡単には責められなくなる、蔑めなくなる。

不足の根が断ち切れた時、その他の色々な困った根も断ち切れて行くのです。
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