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お陰様

太陽の塔などの作品で知られる岡本太郎さんが、

ある講演会でお話された際、臨済禅師の

「道で仏に逢えば、仏を殺せ」

という教えについて、参加者に対し、このように問いかけました。


「道で仏に逢えば、と言うが、皆さんが今から何日でもいい、京都の街角に立っていて御覧なさい。

仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を上げてください。」

誰も手を上げません。岡本さんは続けます。

「逢いっこない。逢えるはずはないんです。では、何に逢うと思いますか?」

誰からも返事はありません。そこで岡本さんは言いました。

「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら己を殺せ。」

たいへん考えさせられるお話であります。


己を殺す、というのは本当に殺す、死ぬという意味ではなく、

自分と仏、自分と他人という対立した見方、考え方を無くすという意味ではないかと思うのです

自分も無ければ、他人も無い。

仏、神というのも自分と離れて存在しているのではない。

この自分というものは、自分だけの自分ではなく、

全体の一部として自分があるということに気付くことが大切です。

そこに至ってはじめて、これまでの悩みや問題の一切が無くなるのです。

自分とすべての物とを別に見、対立させて考えているというところが変わらぬ以上、

他に対する是非善悪の批判を無くすことは出来ません。

自分を生かす無数の働きに目を向け、耳を傾けることが出来れば、

もちつもたれつ、「お陰様」の本当の姿が見えてきます。

夏の暑い太陽の直射も、大樹の茂る枝葉が涼しい陰をつくってくれます。

その働きを、恩恵として受けとめて、「お陰様」となるのです。

自分が気付こうと気付かまいと、自分を生かそうとする働きがこの天地の中に満ちわたっていて、

その中に生かされて生きている自分であることを知ることが肝要なのです。

ありがたく勤める

『世のため人のため、わが身の上を思って、

 家業をありがたく勤めることができれば、それこそがおかげ(幸せ)である。

 それが神様の御心にかなうのである』


ふつう信心といえば、宮、寺、お堂など特別な場所で、

特別な作法をもって特別なことをすることのように思われがちですが、実はそうではありません。 

会社でのお勤めや、家事や育児といった日常の仕事の中にこそ信心がある。

その仕事をありがたい心でさせて頂くことこそが神様の願いである、という教えであります。


近年では仕事のことを、「利益がすべて。結果がすべて」などと言ったり、

「生活を保つための手段に過ぎない」などと割り切ったりする意見が、大変多くなってきました。


しかし、もし仕事のことを、利得や名誉などを得るための手段だと考えるならば、

仕事をすればするほどに、どうしても利己的になっていき、堕落していってしまうでしょう。


また、もし仕事を自分が生きていくための単なる手段として、

そのためにしなければならない重荷であると考えるならば、

いつまでたってもそういう仕事の仕方しか出来ず、

またそういう仕事しか与えられないようになるでしょう。


そのように仕事を何かを得る為の手段として考えるのではなく、

仕事自体を目的として考えてみてはいかがでしょうか。


何の為というわけでなく、仕事をすること自体に感謝し、

自分はどうなるかなどということは忘れて、ただ仕事をすることを喜んでみる。 

すると、仕事のほうも喜んでくれて、

終始自分につきまとってくれるようになる、それが道理というものです。


「生きる」という字には、「生む」という意味が込められています。

これは、神様から与えられた力を用いて、そこに何かよいものを生みだしていく。

それが生きるということであり、働くということでもあるのです。

与えられた仕事をまっとうする中で、人は「生きがい」を得、幸せになっていくのです。

子供とともに

相田みつをさんの詩に、このようにあります。


アノネ
親は子供をみているつもりだけど、
子供はその親をみてるんだな
親よりもきれいな、
よごれない眼でね 

子供というのは、親が子供に対して思っていることが、

本当に自分への愛情なのか、親自身の自己愛なのかということを、非常に敏感に感じ取ります。

親はともすると、自分が果たせなかった夢を子供に託したりして、

自分が持ち合わせなかったような、無理難題ともいえる要求を子供に課してしまいがちではないでしょうか。

しかし本当は、子供をそのまま、子供のありのままを受け入れて、信じてやればそれでよい。

それだけでよいのです。


たとえ子供が親自身の弱点や欠点ばかりを受け継いだとしても、

「私の子供の頃にそっくり同じ。やっぱり親子やなぁ」と肯定的に思いながら育ててやれば、

さぞかし子供は、楽な気持ちでのびのび育つことができるでしょう。


子供は親が「思っている」通りに育つと言われますが、「望んでいる」通りには育ちません。

ですから、子供のことを信じてやりさえすれば、「信じられるような」子どもに育っていく。


それを、『心配だ、心配だ』といって信じてやらないから、

「信じられない」子どもに育っていってしまうのです。


生きとし生けるもの、存在するもの、皆、神様のお造りになられたものなのですから、

みんなそのままで美しいのです。

可愛い子ども、素晴らしい子どもだと、こちらに感じとれる心があれば、

子どもはみんな、そのように育っていくのです。

子供を授かってはじめて人は親になる。

言わば、子供とともに生まれ、子供とともに成長させていただくのであります。

そのような謙虚な心で子育てをさせていただきましょう。

一より習うべきこと

『信心は、一年一年ありがとうなってくるのでなければ本当ではない。』

茶道を大成した千利休(せんのりきゅう)の歌に、このようにあります。

「稽古とは 一より習い 十を知り 十よりかえる もとのその一」

一、二、三…と習い、十まで知ったならば一に戻って、

再びもとの一を習う時、習う人の心は全く変わっているものです。

端から見ればもとの一は同じように見えますが、

習っている本人にとってみれば、最初に習った時と異なっている。

このことが人の進歩につながるのであって、十を知り、

もとの一に戻らぬ人は、それ以上の進歩は望めないのですね。


元日とは暦の上での「一」ですね。

新たな一年を迎えた感動の中で、「今年こそは」という願いを立て、

感謝と反省の胸に神仏に手を掌わせる。そして、今日という一日を出来る限り大切に過ごそうとする。

そのような「元日の心」を毎日続けさせて頂くことが、そのまま信心となってまいります。

ですから、元日の今日。

この感謝の心持ちを、しっかりと味わい、保っていき、

そうしてどのようなことに出遭っても自分から離れないように心掛けることが大切です。


信仰上の修行というのも、もともとはそのためにあるのです。

木魚を叩いて念仏を唱えたり、断食をしたり、山に登ったり、川を渡ったり。

それらはすべて、その間に感じる、何とも言えぬ有り難い心を自らに覚え込ませ、

自らがそのように成り切るために、させて頂くことであります。

このお道では、体を痛めつけたり我慢したりする修行はありません。

その代わりに、「元日の心」を持ち続けることを修行とさせて頂きます。


あらためて一を習うと、その一が、きわめて新鮮になり、また違った経験が得られる。

そこから次に向けての工夫が生まれてくるのです。

日々させていただく信心生活が、一日一日、一年一年、有り難いという想いが増えていっているか、

そうでないかが、大切なことなのです。
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