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やった者にしか分からない

「真にありがたしと思う心、

 すぐにみかげのはじめなり」


修行が大事などと言いますと、

「そんなことやって何か意味があるのか」などと言い出せばきりがないものですが、

そこで我が身、我が心を通して実際に修行をしてみると、

日々繰り返し続けるその中に、必ず見えてくるものがあります。


古人の言葉にあるように『それはやった者にしか分からない』ものなのですね。

これは自分にとって大変なことだとか、苦しい修行をすること自体に価値があるわけではなく、

神様に「させて頂きます」とお願いをし、自ら進んで自らに課した修行をしたときの、

その時の自分の心を見ていくことに大変価値があるのです。


例えば、このお道には御祈念修行というものがありますが、

これは只ひたすら、朝から晩まで御祈念を唱え続けるというもの。

1時間もすれば喉が渇いて声がかすれてきますし、2、3時間で意識が朦朧としてくる。

実際にさせて頂きますと、なかなかの苦行であります。


そうしますと、最後あたりは自分が唱えているのか神様が唱えて下さっているのか、

よく分からない状態になってくる。

自分の力で修行をしている、というような気持ちが無くなり、

最後までやり遂げさせて頂けるところに感謝の念が生まれてくる。

そういう経験を毎日させて頂けば、理屈は抜きにして、

「神様、有り難し」というものが心と体に染み入ってくるのです。


そして、有り難い心が自分の中に生まれますと、

人を責めたり、愚痴・不足を言ったりといったやましい心は一切無くなって、

曇った心も明るくなり、自分の方から周囲に対して

有り難い心を現していきたいという気持ちが起こってまいります。


みかげというと、自分の周囲が自分にとって都合良く動いた時によく言われたりするものですが、

周りの環境がどうであろうとも、自分自身に有り難い心が定まっていて、

その有り難い心を持って人に親切にし、物事にあたっては実意丁寧な生き方ができるようになる。

それこそが、真の助かりなのです。

繋がり

子供の純粋な心に差別意識を植え付けるものとは、一体何でしょうか。

その具体例として、このような話があります。

三歳ぐらいの子供を連れた母親が、水道工事をしている人たちのそばを通りながら言います。

「おじさんたちが、こうして働いていて下さるおかげで、おいしいお水が飲めるのよ。

ありがとうといって通りましょうね。」


同じところを、これまた幼い子を連れた別の母親が通りかかります。

子どもに向かって言いました。

「坊やも勉強しないと、こういうお仕事をしないといけなくなるのよ」

価値観はこのようにして、親から子どもに伝えられます。

子どもは親や教師の「いう通り」になりませんが、「する通り」になると言われます。

最初の母親は、人間はお互い同士、支え合って生きていること、

労働への感謝の念を子どもの心に植えつけたのに対し、

二番目の母親は、職業に対する偏見と、人間を学歴などで差別する価値観を植えつけたのです。

『人は生まれながらにして平等である』という言葉がありますが、

この資本主義社会を見てみれば、生まれた環境によって、

生活水準も受ける教育も大きく違ってきます。

経済的な観点から言えば、「平等」とは程遠いのが現実ではないでしょうか。


お道の教えにこのようにあります。

『人の身が大事か、わが身が大事か。人もわが身も人である』

これは、みんな同じ人間なのだから仲良くしましょうという意味ではなく、

「自分」や「他人」などという区別など、もともと無いのであるという、まことに深遠な教えであります。

私たちの「いのち」というものは、他の多くの「いのち」と繋がり、支え合って存在しているのです。 

ですから、経済的には上下はあっても、

「いのち」には上下などありません。あるのは繋がりなのです。

ですから、真に教養のある人とは、

今の自分の幸せを人に分けてあげられる人のことを言うのです。

そして、自分の幸せを人と分かち合うところにこそ、本当の幸せがあるのです。

欲とは何か

「欲があるから働くのであり、働きもできる。

欲があるから正直であり、正直にもなり得る。

欲があるから真面目であり、真面目にもなり得る。欲があるから、頼まれても横着しないのです。」

…大事なことは、本当の欲というものを、知るか知らないかということだ。」

(湯川安太郎師)


一般的に宗教と言いますと、

「欲」とは人間にとって、いけないものであり、捨てるべきものである、

と教えているように思われがちです。

確かに人間は昔から欲の為に苦しみ、欲の無い世界に憧れてきたに違いありません。

仏教でいう極楽も、キリスト教でいう天国も、欲の無い世界です。


しかし、いくら信仰を深め、難行苦行をしたところで、

欲というものが捨てようとして捨てられるようなものではないところに、

かえってその苦しみがあるのも事実でしょう。

もし本当にこの世の中から欲が無くなるとすると、一体どうなってしまうでしょうか。

いくら欲を否定したところで、人間の自己発展を促し、

行動に駆り立ててきたものは、他でもない人間の欲なのです。


そこで、このように考えてみてはいかがでしょうか。

本来、欲というのは人間にとって捨てることのできない、

また捨てるべきでない神様からのお恵みであり、生命の糧なのだと。


お恵みなのですから、お恵みとして使わせて頂く限りは、道にかなっており、

人間の幸せを生み出す働きとなるのです。


では、本当の欲とは何かと申しますと、それは「我」を離れた欲のことです。

我とは、「自分」に執着する心であり、「欲」に「我」がひっついて「我欲」になりますと、

全体の都合ではなく、自分のみの都合をはかる、身勝手な欲となるのです。

私たちが自分の心に悩みをこしらえて自ら苦しみ、他人にも迷惑をかけ、落ち着かない原因を作るのは何故か。

それは他人のことなど忘れてしまい、自分の得手勝手ばかり考え、

その自分にいつまでも執着しているためなのです。

我を離れたところに人が助かる道がある。

我を離れた本当の欲を持たせて頂きたいと願うのです。

すべて恵まれてのことなのだから

『わが心でわが身を生かすこともあり 殺すこともあり』


ロビンソン・クルーソーは、アフリカへの渡航中に船が難破し、

無人島に唯一人打ち上げられて生き残ります。

しかし、生き残ったことを喜んだのも束の間、

助けを呼ぶことも、島から脱出する術もなく、これからどうしたらよいのかと悩み始めるのです。

 「このままでは、精神的にダメになってしまう…」

そんな自分を慰めるために、ある方法によって心を感謝の気持ちに変えることに成功します。


その方法とは、帳簿の借方(かりかた)、貸方(かしかた)を書くのと同じように、

自分が経験したこと一つひとつについて、「不幸せ」と「幸せ」な点をそれぞれ書きだし、

対比してみるというものです。


持ち物についてならば、「着る服が無い」という不幸せに対し、

「服があっても、着られないほど暑い場所にいる」という幸せがある。


境遇についてならば、「脱出する望みは限りなく小さい」という不幸せに対し、

「他の乗組員たちのように溺れ死なずに生きている」という幸せがある。


このように対比していくと、最終的な差引勘定では幸せの方が大きいという結論になり、

そのことを神様に感謝するのでした。


さて、皆様も過去の出来事に対して、「不幸せ」と「幸せ」な点をそれぞれ書き出してみて下さい。

「不幸せ」が大きい出来事ほど、「幸せ」もまた大きいことに気が付くはずです。


実際に書いてみることによって、

「不幸せ」な出来事ほど、今の自分にとって、

なくてはならない出来事であったことが明確になるのです。


物事には、どんなことでも良い面と悪い面とがあるものですが、

結局のところは、受け取る者の心次第なのです。 

良いも悪いもないのであれば、「すべて恵まれてのことなのだから」と、

神様から頂いた「ご縁」として有難く受け取る心を育てていきましょう。

有難く受け取ったその第一歩が、本当の幸せへと通じているのです。
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