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重荷を担う力

インドの有名な哲学者タゴールの詩に、このような一節があります。


わが重荷を軽くせよとわれは祈らず

われをして重荷を担うことを、

得るものたらしめよ

というが、わが祈りなり


一般的に信心とは、不幸災難から逃れ、平穏無事な日々を送ることが目的とされていますが、

タゴールの祈りには、そのような不幸災難から逃れようとする心情はありません。

むしろ、不幸災難に打ち克っていこう、困難の渦中においても幸せに生きていこう、

という主体的な姿勢が祈りに込められているのです。

人間は皆、必ず何かで苦しむものです。その一人ひとりの苦しみも、決して生半可なものではありません。

胸につかえる問題は誰の人生においても、次々と起きてまいります。

しかし、その苦難の中にどれだけの神様の願いが込められているか、

一見無駄に見えることの中に、どれだけの恩寵があるか、ということに心を向けることが信心であります。

苦悩や絶望が縁となって、神様の願いに気付かせていただき、真の生き方に目覚める。

そこから自然と手が合わさるようになる。

いのちの根が深くなり、よりしっかりとした人生を送ることが出来るようになるのです。

確かにこの世の中は生きづらい。

一面から言えば、人生とは苦労の連続であります。

しかし、その苦労を乗り越えずして、何を乗り越えると言うのでしょうか。

そこを乗り越えて行くところに「生き甲斐」というものがある。


もしこの世のすべてがやさしくて、楽しい事ばかりだったら世の中は決して面白くないはずです。

生きづらい世の中を一生懸命に生き抜いてこそ、生きる喜びを感じることが出来るのです。

人間の本当の幸せとは、そのように人生で出逢う苦難を、

自らの心が乗り越えた先にあるのではないでしょうか。

その真理を何時も忘れないように、祈らせて頂きましょう。

おかげの中に生かされて生きている

『お天道様のお照らしなさるのもおかげ、

 雨の降られるのもおかげ、

 人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。

 人間は、おかげの中に生まれ、

 おかげの中で生活をし、

 おかげの中に死んでいくのである。』


信心をすれば一切の苦難が無くなるかと問われれば、

残念ながらそんなことは有り得ないでしょう。

人が人として生きていく以上は、色々な苦難にどうしても直面していきます。

しかし、事実として苦難がありながらも、そのことで心が苦しまなくなる。

その苦難の中にも「幸せ」を見出せる。

別の角度から物事を見つめ、そこに自然と手が掌わせるようになる。

信心させて頂くと、そのような身の上にならせて頂けるのですね。

過去の出来事を捨て去ることはできなくても、とらえ直すことはできます。

現実を変えることが出来なくても、悩みに対する心の持ち方を変えることはできます。

境遇は変えられなくても、生き方を変えることで人生の見え方が変わるのです。

「○○さえあれば、私は幸せになれる」

「○○にならないと、私は幸せになれない」

と思い込んでいる人は、その幸せが得られない限り幸せになれませんし、

他の幸せになかなか気付くことが出ません。

実はこの世の中は、数え切れないほどたくさんの「幸せ」に満ちているのです。

自分がすでにもっている幸せもたくさんあるし、これから出逢う幸せもたくさんある。

しかし、そのすべての幸せを得られるわけではなく、

自分にはどうしても得られない幸せというのもあります。

ただ、自分にも得られる幸せがこの人生には必ず準備されていて、

しかもそれは一つや二つじゃありません。数え切れないほどたくさんあるのです。

大切なことは、私たち一人ひとりがその自分に準備された幸せに気付くだけのことなのです。

みな鏡に現れる

『天地の神のおかげで生かしてもらっている者は、

 合わせ鏡の間に置いてもらっているようなものである。

 悪いことも善いことも、みな鏡に現れるように神様はご承知である。』


合わせ鏡に映るのは、常に自分自身です。

自分の心が人生に現れる。言い替えれば、人生で起きていることを見れば、

自分自身の心も知ることが出来るという教えです。


鏡に映った自分を変えようとして、いくら鏡に手を伸ばしたところで、そこには実体がありませんね。

鏡に映る自分自身を変えてはじめて、鏡に映る光景が変わっていくのです。


人の姿が見えていても、自分の姿が見えていなければ、半分しか物事が見えていないのです。

不完全な見方ですから、自分の悪さが見えないのですね。

自分を見ることが足りない間は、すべて人のせいにして、不足をそこに持っていってしまいます。

よく、「これだけ自分は努力しているのに、相手は少しも良くなってくれない」という声を耳にします。

そのお気持ちは分かりますが、そのように嘆くだけでは道は開かれません。


合わせ鏡である周囲の人々の中に善なり悪なりが見えるということは、

自分自身の中にも、その相手と同じ善なり悪なりが在るということです。 

自分の心を見せられていることに気付いてはじめて、相手ばかりを責めるわけにはいかなくなります。  

そもそも、不平とか不足とかいうものが起こるというのは、

心のどこかに「自分だけが正しい」という思い違いがあるのです。

それが、自分自身が見えることで、他の人が悪いところを出してきても、

それが我が内にもあることを知っているので、簡単には責められなくなる、蔑めなくなる。

そこから、相手の悪いところも許せるようになり、また善いところもよく見えてくるようになります。


相手が善くなってくれることを、こちらが何十年待ったところで、どうなることやら分かりません。 

それよりも、こちらが相手を悪く思ったり、辛く思ったりしないようになれればよい。

つまりは、自分が変われればそれが一番なのです。

往生

仏道に「往生」という言葉がありますが、

これは一日一日を大事にして生きる生き方のことです。

そして死ぬのは、神さま仏さまにお任せすればよい。


「花の命は短くて」という有名な言葉がありますが、それは人間の嘆きでしかありません。

坂村真民さんの『花』という詩に、このようにあります。


花には

散ったあとの

悲しみはない

ただ一途に咲いた

喜びが残るのだ



花は、自らの美しさを誇示しょうとして咲いているのではありません。

人間が見ていようと、見ていまいと、ただ懸命に、「花だから咲く」のです。

自分に与えられたいのちを、与えられた環境の中で、与えられた役割を精一杯、ただひとすじに果たして、

次の世代にいのちをつないでいくのです。


朝顔は朝に咲いて夕べにしぼみ、夕顔は夕方に咲いて夜明けにしぼむ。

でも、一生懸命に咲いたのですから、朝顔も夕顔も決して悲しんでいないでしょう。

咲くのが、朝顔、夕顔の喜びなのです。


私たちが花を見て美しいと感じるのも、

その花の形や色などの見た目だけにあるのではなく、自らの生命を全うし、

ただ一生懸命に咲いている、そのひとすじの気持ちが私たちを感動させるのですね。


私たち人間にもまた、自らに与えられた生命を精一杯に喜び、

全うする役割が与えられているのではないでしょうか。


今日一日、自らに与えられた仕事を精一杯に喜んでさせて頂けるかどうか。

自分の中から喜びを生み出す稽古こそが信心であります。

人間にとって感謝にまさる生き甲斐はないのですから。

この自分の中から、どれだけの喜びが現れ出るか。

花も咲かせ、実も結ばせて、ただひとすじに咲き切ろうとするところに美しさが生まれるのです。
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