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神人(かみひと)

『しんじんとは信の心ではなく、神人(かみひと)と書く』

臨済宗中興の祖と称され、五百年に一人の名僧といわれた白隠(はくいん)禅師が、

天狗の鼻を一番高々としていた若い頃のこと。


「天下どこを見渡しても、皆つまらん奴ばかりだ。おれに太刀打ちできるような偉い奴はいないのか」

と豪語する白隠禅師に対し、ある友人が

「それなら信州の飯山にいる正受(しゅうじゅ)老人に会いに行け」

と言いました。


白隠禅師は

「なんだ、そんな田舎者ごときが」

と思ったようですが、とにかく行ってみることにしました。

そして正受老人に会うとすぐさま、得意の議論を始めようとあれやこれやと話し出したのですが、

正受老人からは思わぬ返答が返ってきたのです。

「お前の話はみな本を読んで知ったものばかりだ。そんなものは何の値打ちもない。

お前が本当に自ら会得したものは何だ。お前の本当の物を出せ」


これには秀才、白隠禅師も何も言い返せずにいたところ、

「この馬鹿野郎!」と一喝されたのでした。


これをきっかけに、白隠禅師はこれまで自分がやってきた修行姿勢を反省し、

正受老人の弟子となって、炊事係を務め自分の心と体で考え出すことを始められたそうです。


教えというものは、ただ耳で聞いたり頭で分かったというだけでは何の役にも立ちません。

耳に聞くだけでなく、心に聞く。

心に聞くだけでなく、自分の身体に聞く。

実生活、人間関係の中に教えが表れた時、

それが本当に教えを頂いたということになるのですね。


信心とは神人(かみひと)、つまり神様と人が一つとなって

日々の生活を送っていく有り様を例えているのです。


教会で神様に願ったならば、わが身に神様を頂いて、

難儀のある家庭や職場に行かせて頂く。

その難儀の中に入り込んで、わが身を使って

人を助ける神様の御用に立たせて頂くことが信心であります。


教えを頂いて、神様の働きを自分の心、体で現して行こうとするところに道がついていくのです。

人生の目的

人生はしばしば登山に喩えられますが、

自分の外にあるもの―地位やお金、他人からの愛情―を求め、それを得ようと必死に頑張っている時とは、

まさに山に登っている最中であります。


思い通りのものを手にすることが出来れば満足するでしょうが、

それはただ一瞬のことでありまして、すぐに「もっと欲しい」という欲望に駆り立てられ、

それが得られない間は悩み苦しみ、苛つきもする。

常に心の根底には不満足の思いがあり、心の底から満足し、満ち足りるということがありません。


地位にせよ、お金にせよ、自分の外にあるものを人生という登山の目的とするならば、

それはどこまで追って行っても上には上があって、ついに最後の満足を得ることなく終わってしまう運命にあるのです。

地位やお金というのは、目的としてハッキリしているようで

実は大変ぼんやりしており、アテにならないものなのですね。


そこで考えなくてはなりません。山へ登るのは頂上に達するのみが目的ではないことを。

むしろ途中の景色を観賞するところに、本当の楽しみがあるのです。


人生においても、目的は何か一定のものにあるのではなく、

道中出逢う方々と如何に仲良く楽しい時間を過ごせたかが重要なのです。

旅をするときは、「どこに行くか」ではなく「誰と行くか」。

食事をするときも、「何を食べるか」ではなく「誰と食べるか」。

人生の目的とは、競い合ったり、比べ合ったり、努力して一番になることでもなく、誰かと喜び合うこと。

最良の人生とは、そうして誰かと喜び合って、大いに笑って、

「ありがとう」と御礼を言って、歩んでいく人生なのではないでしょうか。


非常に忙しい毎日を送りながらも、その活動自体が、

実は自分の最終的な目的と何ら関係がないということが、多いに有り得ます。

成功だと思っていたことを達成したにもかかわらず、

それよりもはるかに大事なことを犠牲にしてしまっていたことを、ある時突然思い知らされるのです。

人生の登山者として、本当の目的を忘れないようにしたいものですね。

千年生きたいと願うならば

『神様へ願うには長いお願いはいらない。

今月今日で頼んでいけ。

朝起きたら夜中のお礼をし、その日のお願いをせよ。

夜になったら、その日のお礼をし、夜のお願いをせよ。』



江戸時代後期の僧侶であり、歌人でもある良寛に、このようなエピソードがあります。

ある日、たいへん金持ちの老人が良寛を訪ねてきて、このように願われました。

「良寛さん、私は本年七十歳。先も長くないようですが、

せめてもう十年は長生きしたいのです。何かよい方法はありませんか」

良寛は答えます。

「もちろんある。しかし十年経つと八十じゃが、それ以上でなくてよいのか。」

すると老人は、

「そう言われると心許ない気がします。もうあと十年延ばしてもらえませんか。」

良寛は更に問います。

「更に十年と言うと九十歳じゃ。本当にそれ以上はなくてよいのか。」

そこで老人は、

「それでは困ります。今までは遠慮しておりました。

せめて百歳、否、二百歳まで生きられたらいいので、その方法を教えて下さい。」

良寛はさらに、

「千年というのがあるが、どうじゃ」

老人は大変喜んで、

「それは大変結構。長ければ長い方がよろしいです。」

と手を叩きました。


そこで良寛は座り直し、話し始めました。

「それでは教えてしんぜよう。よく聞きなさい。あなたが千年生きたいと願うならば、

臨終を迎えた時、私の生命は千年生きた、あぁよかったなぁと味わえばよい。

これが方法じゃ。わかったな」と。


人生の長さは人それぞれ違いますが、どんな人生も必ず途中で終わりを迎えるのです。

ここがゴールなどというものはありません。

大切なことは、今月今日を感謝して生きる。これに尽きるのです。

感謝に満ちた今日という日を送ることが出来るのならば、

死ぬという事実もいつかの今日の出来事でしかなく、悔いは無い。

七十年生きて幸せだと思うのも、千年生きて幸せだと思うのも、今の自分が決めているのですね。

理想の教師

『五穀は実が熟すほど頭を下げる。

 氏子は天地の神のありがたいことを知ったら、

 人に教えるにもかがんで教えてやるがよい。』


戦前の政界に大きな影響を与えた、頭山満(とうやまみつる)は、

その人物の大きさから「東洋的巨人」とも呼ばれ、彼を師と仰ぐ著名人は数知れず、

天風会の創始者で、数多くの指導者を育てた中村天風(なかむらてんぷう)もその一人です。


天風は師匠である頭山の力を借り、銀行頭取などを歴任し、実業界で大変活躍するのですが、

ある時、一切の社会的身分、財産を処分し、人を救い助ける道に生きる決心をしました。


頭山もこれには驚きましたが、お前が望むならばと快諾し、

それから天風は上野公園の片隅で毎日、道行く人々に人生について説き始めたのです。


しかし世間もなかなか認めてくれません。

来る日も来る日も、同じ場所に立って話をするのですが、誰も足を止めて聞いてくれません。

たまたま聞いてくれる人がいても、目を合わせると怖がってすぐに逃げてしまいます。

そのため、天風もなるべく人と目を合わさないようにして話をするようにしました。


ある日のこと、その日も同じように教えを説いていると、

珍しく数人の人が話を聞いてくれていました。しかしそこに雨が降り出したのです。

天風は構わず、雨に濡れながらも話を続けるのですが、雨はさらに激しくなり、

聞いてくれていた人たちも立ち去ってしまいました。

しかし、まだ一人だけ残って聞いてくれている人がいます。

目を合わせたら逃げられるかも知れないので、そちらを見ないようにして話を続けます。

しかしこのような大雨の中、よほど熱心な方だと思い、そっと目を向けてみました。


「頭山先生!」

なんと、そこにいたのは師匠である頭山だったのです。

頭山は優しく微笑み、「うん、うん、今日からわしがお主の弟子になろう」と言ったそうです。

天風は涙を流し、喜んだという話です。


教師と言うと、何かを教えたり、言い聞かせたりする人だと考えがちなのですが、実はそうではない。

相手と同じところまでかがんで降りて、実際にやって見せる人のことを、理想の教師と言うのです。
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