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人生のダイヤル

『おかげを受けられるか受けられないかは、

わが心にある。わが心さえ改めれば、

いくらでもおかげは受けられる。』


人間、ある程度の年齢になれば、

自分の弱さや悪い癖というのが自分自身でもよく分かってきます。

しかし、分かったところでそれらを正すことは大変難しいことですから、

いつも同じようなところで人生に躓き、傷つき、

「運命ですから…」と諦めてしまう人が多いのではないでしょうか。


しかし、本来、「運命」というのはそんなものではありません。

「運」とは動くこと。

「命」とは人生。

つまり、私たちの人生というのが

動いてやまざるものであるがゆえに、「運命」というのです。


三国史に登場する武将、呂蒙の言葉にあります、

『男子三日会わざれば刮目して見よ』

人はいつだって生まれ変われる。


たった三日の間にも見違えるほどに進歩することが出来る。逆もしかりです。

白と黒、善と悪の間に人間がいて、そしてそのどちらにもいくことが出来るのです。

何らかの縁で上に昇ることもできれば、下に落ちることにもなる。


あらゆる悪も人間から出てきますが、同時にあらゆる善も人間から出てくるのです。

そのように、人間というのは何か一定の塊としてあるのではなく、

その時々の場や関係次第で色々な動きをするものであり、

自ら背負った運命を明るい方向へも暗い方向へも変え得る力を持っているのです。

それだけに難しい問題も多々あるわけですが、

運命を明るい方向へ展開してこそ生まれた甲斐があるというものです。 


心というのは、人生に映し出すものを選択するダイヤルです。

そして、感謝や歓喜の情、すなわち、

「嬉しい、楽しい、幸せ、大好き、愛してる、ありがとう、ついてる」という想いは、

感謝と歓喜に満ちた運命を映すチャンネルなのです。

感謝や歓喜のチャンネルに合わせた生活を進めれば、人はいつだって幸せになれるのです。

神様の思し召し

『神は人間の親神である。

かわいいわが子を、どうして難儀に遭わせなさるであろうか。わが子をもって納得するがよい』


自分のことなど忘れ、助けずには居られないというのが、神様の御心なのですね。

どこまでも助けてやろう、どこまでも救ってやろう。

よしお前がどんなに悪い者であろうとも、どんなにつまらぬ者であろうとも、助けずには居られぬ。

悪ければ悪いだけ、つまらないならつまらないだけ、なお助けずには居られない。

わが子に対する親の心とは、そのようなものではないでしょうか。

この世に生まれ、世の中というものがだんだん分かってまいりますと、

本当に頼りになるものなど何も無いということを思い知らされます。

これこそと思ったものが遠慮無く倒れてしまい、

この人こそ大丈夫と思った人が変わってしまい、

そうしてこの世には本当に頼りになるものはないのかと探すのですが、

探せば探すだけ見えなくなっていくのです。


しかし、お道の教えを聞かせて頂くことによって、

神様が、「お前を助けずには居れないのだ」と仰って

ずっと自分を呼んで下さっていたことに気付かされるのですね。

あぁ神様が、そこまで私のことを御守り下さっていたのか。

私の心配事について、私以上に心配して下さっていたのか。

私が腹を立てる時には、それ以上に、神様が御心を痛めておられたのか。

そのような神様の御心がだんだんと分かってくるのです。


人間が不平不足を言ったり、心配したり、腹を立てたり。

どうも心の中に落ち着きがなかったりするのは、この神様の御心が分かっていないためです。

私たちが本当に「有り難い」と思える時。

それはどこまでも助けずには居られぬと言って、私たちが起きている時も寝ている時も、

ずっと神様が御守り下されているということを分からせて頂いた時、本当に心から「有り難い」と思えるのです。

信心させて頂くということは、神様のそのような思し召しを分からせて頂くことなのです。

神任せ

『我を出すな。わが計らいを去って神任せにせよ。

 天地の心になっておかげを受けよ』


徳川将軍家の兵法指南役であった柳生宗矩(やぎゅうむねのり)のは、

病の本質について、「病とは、心の病なり。心の病とは、

心のそこそこにとどまるを云うなり」と説きました。


心をとどめるというのは、執着するということですね。その執着こそが心の病なのだと。

天下無双と言われた剣豪も、執着からいかに離れるかということを常に考えていたようですが、

人間関係における執着での最たるものが「許せない」という思いです。


「許せない」という思いとは、過去に自分が傷つけられた出来事に執着して、

誰かを責め続けている心の状態です。

責め続けることで心が晴れるならばそれも良いでしょうが、

逆に心はますます苦しくなっていきます。

そもそも他人を悪く思うこと自体、自分自身の心が乱れ、傷つくことであり、

相手との間柄もさらに悪くなっていく。まさに損をすることばかりなのです。


「許す」というのは、相手がした行為を肯定することでもなければ、

自分の心を押し殺して我慢することでもありません。

ただ、その事柄への執着から離れられれば、それでよいのです。


相手が自分を傷つけたのは、言ってしまえば、

相手が人間的に未熟であったが故のことなのです。

確かに悪いと言えば悪いことでしょう。

しかし、悪いものを悪く思うだけでは、自分の心がますます苦しくなっていくばかりです。

ですから、そのような苦しい思いは神様に預けてお任せしましょう。

そして自分自身の心は、この大空のように広く晴れ渡り、

この大地のようにすべてを受け入れられる心にならせて下さい、と祈りましょう。

そのようにして執着から離れていくことが出来たならば、

この人生は、もっと生きやすく、もっと楽しくなるはずです。

自らの敵は

『我よしと思う心を仇として

 戦いて行け 日ごと夜ごとに』(安武松太郎師)


「自分が正しい」と思うことこそが、自らの敵である、という教えであります。

おそらく全ての人間が人に対して、心から愛し合い、信じ合い、

良い心持ちで付き合うことが出来るようになりたいと心の底では願っているのに、それがなかなか出来ない。

そして、その出来ない原因が、相手の悪いところにあると思うところから、

色々な不平不足が心の中に生まれ、また口からも出て来るのです。


しかし、「仲」というものは自分だけでつくるのではなく、また相手だけでつくるのでもない。

自分と相手との言わば「合作」なのですね。

そのように考えてみますと、仲が悪いということは、相手もさることながら、

自分にも少なからず原因がある、ということになります。

そもそも、不平とか不足とかいうものが起こるというのは、

自らの心のどこかに「自分は正しい」と思うところがあるから起こるのです。

それこそが己の敵である、と。

深刻な人間関係の問題を解く道は唯一つ。


それは、自分自身の至らなさ、未熟さに気づいて、自ら詫びることであります。

自分の手元に、こだわりがあったり、曲がったものがあるから人間関係に行き詰まるのです。

人間の仲というのは不思議なもので、仲の良い者同士の間では、悪いところが不思議と出てこない。

出ても悪いと感じないのです。

それは、何も仲が良くなったから、急に相手が善人になったのではなく、

仲が悪くなったからといって、急に悪人になるわけではありません。

相手はそのままでありながら、仲さえよくなれば、悪く思えないようになるのです。

ここに、人間の間柄の妙味がある。

ですから、人間というのは、そう単純に良し悪しなど言えないものである。

このことをいつも心に留めておかなければなりません。
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