FC2ブログ

親と子

『神は人間の親様である。

 信心をする者は、一生死なぬ父母に巡り合い、おかげを受けていくのである』


神様とは、人間を祟ったり罰を与えたりする存在では無く、

人間を愛してやまない親神様なのですね。

考えてみれば、数多ある人間関係の中でも親と子の間柄ほど、根本的に「善いもの」はないのです。

何故それほど善いかと申しますと、それは、親が子を無条件に許すところにあります。


親は子どもの事を子ども自身が知っているよりもよく知っており、

子どもの欠点短所をもよく知っていて、その上で可愛がることが出来る。また欠点短所を許すことが出来る。

子どもからすれば、この「知っていて可愛がってくれる」、「知っていて許してくれる」、

ここに有り難いところがあり、助かるところがあり、育てられるところがあるのですね。


自分の秘密を親ほどよく知っていて、もし可愛がらないということになれば、これほど恐ろしい敵はいませんよね。

油断も何も出来たものではない。

けれども、子どもが親の前では用心せねばという気が少しもしないのは、

自分のそのまま、ありのままを親が愛してくれる、許してくれる、と子ども自身がよく知っているからなのです。


その深い親しみは何とも言えぬものですが、

もし名をつけるとすれば、これこそが「信じる」という心持ちなのでしょう。

他の人間が自分のことを本当に愛してくれていると信じ切れる時、人は心から落ち着くことが出来ます。

その代表例が、親と子の関係なのです。

同じ親でも、神様は人間よりも遥かに気が長く、心が広い。

責めるところが一切無い為に、ものを言われることもない。

これ程愛情深い親はいないのですね。

私たちがこの人生で信心のご縁を頂くことは、その親神様と出逢ったということ。

その「一生死なぬ父母」に巡り合えたことに御礼を申し、

親に恥じぬ生き方を心掛けていくのが、信心なのです。

ご時節のお繰り合わせ

『厄日に風が吹いても倒れさえせねば、吹かなかったと同じであろう。

 信心していれば、どこにどのような風が吹いておろうとも、吹く風に時を嫌わして下さる。

 たとえ風が当たっても、おかげの風にして下さる。

 ご信心さえしていれば、厄年も無常の風も恐れることはない。厄年がかえっておかげの年になる。』


「自分には、取り立てて心配な事は何も無い」と言われる方がおられますが、

どんな人でも突き詰めて考えてみた時に、

「これでもう安心だ」と言い切れるものなど、実は何一つ無いのです。

健康のこと、経済のこと、人間関係のこと、家族のこと…。

どれ一つをとってみても、これでもう心配はいらないと保証し得るものなど何もありません。 

「何も言うことが無い」というのも、言ってしまえば、

今はたまたま異常な事態に出逢っていないというだけのことであって、

一度異常な事態が起きてくれば、その苦しみを背負って生きていかねばなりません。

「無常の風」とは、諸行無常という仏道の教えです。

一切の形あるものは、常に変化していく。

風が花を散らすように、人間の命も無常が奪い取る。無常の風は時の良し悪しなど待ってはくれません。

そのように、元来、人間はわが身がわが自由になるものでないのですね。


しかし、そのような過酷な現実に対しても、この道では、

「時」の流れの中に神様の計らい(ご時節)があると説きます。

ご時節のお繰り合わせを頂いたら、「無常の風は時をきらわぬ(時を選ばない)」と嘆くことはない。

この世がたとえ諸行無常であっても、

人間を生かし育んでくださっておられる親神様のおかげを受けて生きるという、

人間の依るべき根っこをはっきりと掴んでいれば安心なのです。

「信心する者とせぬ者とでは、親のある子とない子ほど違う」

という教えも、そのような神様のお働きを指しているのです。

立場と役割とは

『氏子あっての神、神あっての氏子、

子供のことは親が頼み、親のことは子が頼み、

天地のごとし、あいよかけよで頼み合いいたせ。』


人はそれぞれに立場と役割を持って生きています。

結婚すれば夫・妻となり、その夫婦に子供が生まれれば、

その夫婦は、生まれた子に対して親となる。

親となった以上、そこにおのずから親の立場としての役割を受け持つことになる。

そして、親の立場としての役割を子に対して果たしていくことで、親は真の親になっていくのです。

それが親の道であり、親として生きるということです。


そして子もまた親に対して、子の立場と役割を受け持つ。

子の立場としての役割を親に対して果たしていくところに、子の道があるのです。


そのように一人ひとりがそれぞれ異なる立場と役割をもって生きているからこそ、

一人ひとりが異なる問題を抱え、一人ひとりが異なる願いを持って生きているのですね。


そして、そうした一人ひとりに神様が向かわれているのです。

難儀な氏子が一人ひとり神様に向かい、それぞれの願いに道がつき、

立ち行くことが信心の目的とするところです。


「あいよかけよ」という言葉は昔の岡山地方の方言で、

「よいしょ、こらしょ」のような、二人で息をそろえて物を担ぐ時に使われていた掛け声であり、

助け合う関係を指しています。


親は子のことを神様に願い、親の立場としての役割を子に対して果たしていく。

子は親のことを神様に願い、子の立場としての役割を親に対して果たしていく。

親も子も、それぞれに願い合って、違う立場の役割を果たしあって生きていくのです。

そのように親と子が、万物を生かし育むこの天地のごとく願い合い、

働き合っていくところに、お互いが共に助かる道が開けてくるのですね。


「氏子あっての神、神あっての氏子」とは、

そのように私たち一人ひとりの願いに道がついていくことが、

私たち人間の願いの成就であるだけでなく、神様の願いの成就ともなるのです。

幸せの中で生きている

『お天道様のお照らしなさるのもおかげ、雨の降られるのもおかげ、

人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。

人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである。』


信心をすれば一切の苦難が無くなるかと問われれば、

残念ながらそんなことは有り得ないでしょう。

人が人として生きていく以上は、色々な苦難にどうしても直面していきます。

しかし、事実として苦難がありながらも、そのことで心が苦しまなくなる。

その苦難の中にも「幸せ」を見出せるようになるのです。


過去の出来事を捨て去ることはできませんが、とらえ直すことはできます。

現実を変えることが出来なくても、悩みに対する心の持ち方を変えることはできます。

境遇は変えられなくても、生き方を変えることで人生の見え方が変わってくるのです。

たとえば天気一つで機嫌を損ねる人もおられる。

そのような人は、雨の日には憂鬱で機嫌が悪い。

しかし、それは雨の有り難さというものに、自分の心が向かわないからです。

雨の日には雨の日なりの有り難さを自分の心に見出すことができたならば、

雨が降ろうが陽が照ろうが関係なく、いつも心は晴れ渡ります。


「○○さえあれば、私は幸せになれる」

「○○にならないと、私は幸せになれない」

と思い込んでいる人は、その幸せが得られない限り一生幸せになれませんし、

他の幸せになかなか気付くことが出ません。


世の中には数え切れないほどたくさんの「幸せ」があります。

自分がすでにもっている幸せもたくさんあるし、これから出逢う幸せもたくさんある。

ただ、すべての幸せを得られるわけではなく、自分にはどうしても得られない幸せというのもある。


ただ、自分にも得られる幸せがこの人生には必ず準備されていて、

しかもそれは一つや二つじゃない。

数え切れないほどたくさんあるのですね。

大切なことは、私たち一人ひとりがその幸せに気付くこと。それだけなのです。
ランキングに参加しております!
いつもクリック頂き、        誠にありがとうございます。   アヒルちゃんとネコちゃんを     1日1回ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking 人気ブログランキングへ

お越し頂きありがとうございます!
ご連絡はこちらよりどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
最新記事
カテゴリ
FC2カウンター