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自分が見えること

『自分を見ることを仕事とせよ。それよりほかに何もすることはいらぬ』
(高橋正雄師)


「悩み」とか「苦しみ」というのは、それに対して本気で向き合わないと、

いつまでもそこから抜け出せないものです。

『あいつが悪い』、『こいつが悪い』といっている間は、

自分の悩みや苦しみから、ほんの少し逃げているのです。

正面から悩みや苦しみを引き受けるのは、誰しもしんどいことですからね。


しんどいから逃げたくなる。

それで、少しでも逃げるため

『あいつが悪い』と、誰かのせいにする。

誰かのせいにしておく限り、自分はその問題に正面から向かわなくていいわけですから。


たとえば、

「これだけ私が、成績の悪いわが子のことを心配しているのに、

なんであの子は平気な顔をして遊んでいるのか」

と思ったとしましょう。

すると人はたいてい、わが子にだけ問題があるのだと思うのですね。

しかし、実はそうではない。自分にも問題があるのです。


成績ばかり気にする自分。

顔をみれば勉強勉強と言って、子どもをうんざりさせ気力をなえさせてしまう自分。

いやもっと深いところに問題は隠されていて、

それを引き起こしているのは、もしかすると自分かも知れない。

そうやって問題を自分のものにして見てみると、解決の糸口がいろいろ見えてくるのです。


それを『あいつが悪い』方式で、ただ怒ってしまうというのは、

働きもせずにお金持ちになりたいという発想に近いのですね。

自分を見ることが足りない間は、すべて人のせいにして、不足をそこに持っていってしまいます。

ところが、自分を見ようとするところから一大転換が起きるのです。

自分が見えることによって、相手だけが悪いと思っていたことが、

自分も相手も根本的には変わらないということに気付かされるのです。

そこから、相手の悪いところも許せるようになり、

また善いところもよく見えてくるようになり、物事が好転していくのです。

信心とは何か

『信心といっても別にむずかしいことはない。

親にものを言うように、朝起きたらお礼を申し、その日のことが都合よくいくように願い、

よそへ行く時には、行ってまいりますと言ってお届け申しあげよ。

そして、帰って来れば、無事で帰りましたとお礼を言い、

夜寝る時にはまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、それで信心になる』



中国・唐の末期に趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん)という禅僧がおられました。

ある時、一人の雲水が「道とは何ですか?」と問うたところ、趙州和尚はあっさりと

「墻外底(しょうがいてい)」道なら垣根の外に在るわい、

と答えました。


雲水は馬鹿にされたと思って、

「私がお尋ねしているのは、その道のことじゃありません。仏教の大道を尋ねているのです」

と口をとがらして言いました。

すると趙州和尚はこう答えます。

「ああ、大道は長安に通っておる」と。

有名な公案であります。


『道』というものが何か高尚な概念だと決めつけている雲水に、

垣根の外の小道もたどっていけば都に通じているように、

生活の全て、一挙一動が人として踏み行うべき正しい道、大道に通じているのだ。

つまり、道とは実践なのだと諭したわけです。



神様がどこにいて、どのような姿で、男か女か、などというのも、さしたる問題ではありません。

道が分かる、神様が分かるということは、知識や学問として理解するというものではなく、

自分自身の生き方、信心が進んでいく中で、

自分の命、生活は自分だけのものではなく、一切の働きによって

「生かされて生きている」ということが分かるということであります。


大切なことは、一日一日、「生かされて生きている」ことに感謝をして生きていくこと。

その想いで毎日の仕事を有り難くさせていただく。

人と物を大事にさせていただく。

それが信心であり、肝心要のところはここにあるのです。

神から信じられる者

『神を信じる者は多いが、

 神から信じられる者は少ない』



スティーブン・コヴィー博士は、

『7つの習慣』の中で“信頼残高”という言葉を紹介しています。


銀行口座にお金の預け入れを重ねていけば残高はプラスになり、

引き出しをすればマイナスになるように、人間関係にも信頼口座というものが存在すると博士は言います。


礼儀正しい行動、親切、正直、約束を守るなどの行動をすれば

信頼口座への預け入れ(プラス)となり、

逆に自分勝手な行動や振る舞いをすれば引き出し(マイナス)となります。


相手との信頼残高が高ければ、こちらの多少の失言や失敗も許してくれ、

こちらの気持ちをしっかりと汲み取ってもくれる。

辛い時や悲しい時には傍にいて、優しく慰めてくれるでしょう。


逆に残高が無ければ終始相手の顔色を伺いながら、言葉を選んで話をしなければならなくなる。

陰口を言われることもあるでしょう。


自分の周囲の人々との信頼残高がどれだけあるかが非常に大切になるということですね。

普段から周囲の人々との信頼口座に継続的な預け入れをするよう心掛けねばなりません。



日本でも同様の働きを表す言葉に「徳」というものがありますが、

「徳」の中でも「神徳」という徳ほど心強いものはありません。

信心というのも、言わば普段から神様との信頼口座に

預け入れをさせて頂くことであり、それが幸福になる秘訣なのです。


普段から「神様を信じている」と言っていても、

ただ神様にお願いしていることにとどまって、神様に願っておけば

やがては神様からプレゼントが届くことを心待ちにしているのがほとんどではないでしょうか。


自分が神様を使うのではなく、神様に自分が使って頂くことが大切であり、

そこではじめて神様との信頼残高への預け入れとなるのです。

人を助ける神様の御用をさせて頂くと心に決めて、

自分の手足を通して、自分の生活を通して、神様の生きておられる働きをさせて頂くことが、

幸せな人生を約束してくれるのです。

仕事と幸せ

『日本でいちばん大切にしたい会社』で知られる、

知的障がい者雇用割合7割を超える、チョーク製造会社の日本理化学工業。


同社の会長であり、知的障害者雇用を始められた大山さんは、

もともとは知的障害者に理解がある方ではなかったそうですが、

あるご住職からの教えが、その後の人生を決定づけたそうです。


ある方の法要で禅寺を訪れた際のこと。

ご祈祷がすみ、食事の席でたまたま隣の座布団にご住職が座られました。

何か話しかけねばと思った大山さんの口をついて出たのは、こんな質問でした。


『うちの工場には知的障がいを持つ二人の少女が働いています。

 施設にいれば楽ができるのに、なぜ工場で働こうとするのでしょうか?』


これは、大山さんがずっと考えていた疑問でした。

するとご住職はこのように答えられました。


『人間の幸せは、ものやお金ではありません。

人間の究極の幸せは四つです。

人から愛されること、褒められること、役に立つこと。そして、必要とされること。

愛されること以外の三つの幸せは、働くことによって得られます。

障がいをもつ人たちが働こうとするのは、本当の幸せを求める人間の証なのです。』



大山さんは思わず言葉を失ったといいます。

働くことが当たり前である健常者は、この幸せを意識することはない。

しかし、意識していなくとも、その幸せは心をずっと満たしてくれているのです。


そして、工場で働くふたりの少女が、

どんなにつらくても、しんどくても、必死になって働く理由がこの時はじめて分かったのです。



中世ヨーロッパでは、仕事のことを「コーリング」と呼びました。

コーリングとは、召命(しょうめい)、神様に呼び出されることです。

つまり仕事とはその内容を問わず、自らの使命を果たすようにと

神様から呼ばれ、与えられた「天職」なのですね。


「仕事」という字は、「仕」も「事」も「つかえる」と読みますが、

一体誰に仕えるのかと言えば、神様につかえるのです。

神様につかえる心で、与えられた仕事をまっとうする中で、人は幸せを得るのです。

元日の心

『信心は日々の改まりが第一である。

毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、

夜が明けたら元日と思って、日々うれしく暮らせば家庭に不和はない』


元日には、皆が「おめでとう、おめでとう」と言い合い、新年を喜び合います。

日本人にとって元日とは、単に年度が変わったということだけではなく、

生命が改まって再生するという、民族的な心情が心の底にあるのではないでしょうか。

そのために、すがすがしく新しい心と感動を持って、元日を迎えることが出来るのですね。


暦の上では元日も他の日も一日には変わりありませんが、

年改まる元日には、人間の心情をも改まらせる働きがあり、

それがたいへん有り難いことだと思うのです。


「元日の心」とは改まりの心であります。

今日という日を迎えた感動の中で、「今日こそは」「今年こそは」という願いを立て、

感謝と反省の胸に神仏に手を掌わせる。

そして、今日という一日を出来る限り大切に過ごそうとする。

そのような心、願い、行動を毎日続けることが信心です。


信心すれば、家庭に職場に、良い人間関係が生まれ、幸せな人生を歩んでいくことができます。

だからこそ、元日の今日。この心持ちを、しっかりと見ていき、味わっていき、保っていき、

そうしてどのようなことに出遭っても自分から離れないように心掛けることが、大切です。


信仰上の修行というのも、そのためにあるのです。

木魚を叩いて念仏を唱えたり、断食をしたり、山に登ったり、川を渡ったり。

それらはすべて、その間に感じる、何とも言えぬ有り難い心を自らに覚え込ませ、

自らがそのように成り切るために、させて頂くことであります。

このお道では、体を痛めつけたり我慢したりする修行はありません。

その代わりに、「元日の心」を持ち続けることを修行とするのです。

元日の心を携えて、日々の生活を有り難く送っていくその中に、

有り難いおかげ(幸せ)が生まれて行くのです。
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