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「関係」を願う

『よいもの よいこと よい仲から』

先月の話になりますが、三年ぶりに大阪マラソンに出場させて頂きました。

今回はしっかり練習させて頂けたこともあり、

最後まで歩くことなく「完走」でき、改めて、

マラソンの楽しさ、苦しさを味わわせて頂きました。


沿道の大声援の中、大阪城、道頓堀、京セラドーム、通天閣、と

大阪の名所を横目に走らせて頂ける楽しさ。

30キロを越えた住之江公園前あたりからの、あの苦しさ…。

その中で、苦しみを救って下さる応援、声援にも出逢わせて頂きました。


走る側だけでなく応援する側も面白いコスチュームを着ているというのも大阪ならではのことですが、

沿道からチョコレートや飴を下さる方が幾人もおられ、

またある方はエアーサロンパスを足に吹きかけて下さりました。

皆、見ず知らずの方ばかりです。


そのように人と人のつながりを感じられることが、

ゴールラインを切った時の感動をより大きなものにするのだろうと思います。

私も大変有り難い心持ちにならせて頂きました。


人間が本当に「よい」、嬉しいなぁ、楽しいなぁ、有り難いなぁと感じるものはすべて、

自分と他人と間柄、関わり合いの中から生まれます。

一人でフルマラソンを走り切ったところで、大して感動は味わえないでしょう。人生もまたしかりなのです。


他人との間柄、関わり合いの中にこそ、本当の幸せがあるのですね。

しかし、私たちの普段の生活はどうでしょうか。

マラソンなどに出場したり、ボランティアに参加したときには誰しも他人との繋がりを感じ、

感動出来るかも知れませんが、普段の生活では、そこのところはどうなっているでしょうか。

希薄なものにはなっていないでしょうか。

人と人との「関係」を願いましょう。

その関係が少しでも良くなるように、強くなるように願い、

出来る限りのことをさせて頂くことが肝心なのです。

身をもって祈る

上野公園の西郷隆盛像の作者として有名な高村光雲は、もともと大工の息子であったそうです。

それがある日、浅草の観音様にお参りしたとき、

たくさんの参拝者の姿を見て、

「同じ鑿(のみ)を持つのなら人様から合掌して拝まれる仏像を彫る仏師(ぶっし)になりたい」

と思い立ち、高村東雲に弟子入りを志願します。


光雲の入門を決めるその日、東雲は光雲に対し、

「そこの井戸の水を汲んでみろ」と命じました。

言われた通り、つるべで汲んだ水を手桶に移しているのを見ていた東雲は突然

「さっさと帰れ!」と怒鳴りました。

叱られた訳も分からず、ただただ驚いていた光雲を見て、東雲は静かに語りかけました。


「弟子入りしたいとやって来たときの挨拶をもう一度ここでやってごらん」

「人様から拝まれる仏像を作る仏師になりとうございます。弟子入りをどうぞお許し下さい」

「その願いに嘘はないか」

「はい、ありません」


「では言おう。人様から拝まれる仏像を作るのなら、

 すべてのものを拝んでいく心を掴まないと仏像は彫れないぞ。

 それなのになんだ、あの水の汲みざまは。

 こぼれてもこぼれても平気でザアザアと移していたではないか。

 水を粗末にするような心で、人から拝まれるような仏像が作れると思うのか」


光雲はこの時の師の言葉を生涯忘れませんでした。


「身をもって祈る」という言葉がある通り、

日々の生活の営み自体が祈りにならなくては、本当に神様を拝んでいることにはなりません。

朝、目が覚めたら布団にお礼を申し、洋服に「お世話になります」とお願いする。

食事を頂くときには、食材と、その加工や調理に関わったすべての方々にお礼を申し、

食器に「お世話になりました」とお礼を申しながら洗わせて頂くのです。

もちろん布団も洋服も食器も返事はしません。

しかし、物を通して神様にお礼を申すのです。

そういう生き方を進めていくところに、有難いおかげ(御利益)が生まれていくのです。

祈ることだけは出来る

『願う心は神に届くものである。』


「念ずれば花ひらく」で有名な、坂村真民(さかむら しんみん)先生の詩は、

年令、職業を間わず幅広く愛唱され、

その生き方とあわせて、「人生の師」と仰ぐ人が多いそうです。

先生が八歳の時、小学校の校長をしていた父親が急逝し、一家の生活はどん底に落ちます。

父親の死に目に会えなかった長男の先生に、母親は父の喉仏を与え、

「今日から毎朝水を供えるように」と命じました。

それから先生の早起きが始まります。

誰も起きないうちに共同井戸の水を汲みに行き、父の喉仏に供えるのが日課となりました。

その日課は生涯続きました。


母親は五人の幼子を育てるために懸命に働きました。

その母親の働く姿、そして母親が常に口ずさんでいた、

「念ずれば花ひらく」という言葉が、先生の心に焼き付いて、あの有名な詩が生まれたのです。



念ずれば花ひらく 

苦しいとき

母がいつも口にしていた

このことばを

わたしもいつのころからか

となえるようになった
 
そうしてそのたび

わたしの花がふしぎと
 
ひとつひとつ ひらいていった



「祈ることしか出来ない」という溜め息混じりの言葉をよく耳にします。

これは、「自分には何も出来ないから、

せめて祈りはするが、祈ったところでどうにもならない」と、

「祈り」を過小評価しているのではないかと思うのです。


「祈り」には力がある。このことは、本気で祈り、願い、

念じた者のみが分かることであります。

「祈ることしか出来ない」のではなくて、

どんな絶望的な状況にあっても、「祈ることだけは出来る」のです。

そして、その願い、祈りというものが必ず自分の人生に形となって表れてくるのです。

神を杖につく

『金の杖をつけば曲がる。竹や木の杖をつけば折れる。

神を杖につけばよい。神は、曲がりも折れも死にもなさらない。』


何かをアテにして生きるというのは、

ちょうど杖をついて立っているようなものであります。

お金を持ちたい、地位名声を得たいという心は誰にでもあるものですが、

何故そういう心を持つかと言えば、お金や地位名声が無いと心細いからです。 


心細く、自分一人ではしっかり立っていられない気がするので、

お金の杖、地位名誉の杖が欲しくなる。また、

そのような心持ちでありますから、杖はなるべく多い方が安心で、

それで他人の持っている杖でも、出来る限り自分の方に余計に取り寄せたくなるのです。


しかし、心細い心を杖でしっかりさせようと杖を増やせば増やすほど、

自分の足で立とうとしないことから、人間はさらに弱くなっていくのです。

何もお金や地位名誉が悪いのではありません。

ただ、それらをアテにして、その助けでしっかりしたいという浅ましい心が改まらない限りは、

どうしても持っているものについて心配が絶えず、

それを増やそうということにばかり心を痛め、

そのために人と争いさえしなければならないことになります。


それではお金や地位名誉を持っている人は皆間違っているかと申しますと、

決してそんなことはありません。

中には本当の持ち方をしている人もおられます。


それは、杖ではなく、枝として持っておられるのです。


杖は自身を支える為に外から借りてくるものですが、

枝は自身の中から栄えて出るもの、湧き出るものです。

自身の中から湧き出たものは、人から取っていかれる心配はありませんし、

人に差し上げたとしても、自分が倒れてしまう心配も無い。


「神を杖につけばよい」との教えは、自分自身の中に、

神様が居られるということ。

外のものを頼りにして杖につかなくても、

この自分の中には、湧かし出す力が与えられていることに気付かせる教えであります。

その力にさえ目覚めれば、杖が無くても、心細い気がしないようにならせていただけるのです。
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