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本音を聞くこと

愚痴や不足というと何か悪いことであり、

聞くのも嫌なことだとお思いかも知れませんが、決してそんなことはありません。

愚痴や不足こそ、喜んで聞かせて頂けばよいのです。


そんな時にこそ本音が出ているわけですから、

気をつけてよく聞いていれば、相手がどんな性格で、どんなことが好きで、どんなことが嫌いか。

こちらとしてどんなことをしてあげれば相手が助かるのか、ということがよく分かってくるのです。


ですから愚痴や不足をよく聞くということほど、

人間関係をよいものにしていくのに大切なことはありません。

また、愚痴や不足を言う者にとっても、誰かに聞いてもらうだけで救われるところがある。


そもそも愚痴や不足を言う者は、自分の胸にあり余る事があって言わずには居れないのです。

ですから口から出すことによって、自分の胸が晴れる。

ただ言うだけで胸がすくのです。

ですから、愚痴や不足を言う者がいたら、心から本気で聞いてあげるとよい。

それだけで人助けとなり、相手との人間関係も良いものとなっていく。


さらに進んでは、そうして誰か一人の愚痴不足がよく分かるようになると、

それを基にして、他の人の心の中まで察しがつくようになる。

人間の腹の中とは、皆それほど違いがあるものではないということが分かってくる。

そうなれば、「愚痴」や「不足」と呼ぶまでもなくなってまいります。


愚痴不足というのは、相手が身を入れて聞いてくれ、

その場限りで解消してしまいさえすれば、「愚痴」と名をつけるまでもなく、

言わば「打ち明け話」となるのです。


それが聞き手が「うるさい、くだらない、聞きたくもない」とはねつけた瞬間に、

その話には「愚痴」という悪名がついてしまうのです。


親しい相手、夫や妻、同僚や部下の愚痴を解いてあげられるかどうか。

そこにこそ、自らの値打ちが表れるのです。


愚痴や不足こそ喜んで聞かせて頂きましょう。

そこにどれだけ心を込められるか、

祈りを込められるかが、幸せの鍵ともなってくるのですから。


七転八倒

『これほど信心するのに、なぜこういうことが出てくるのだろうかと思えば、もう信心はとまっている。 

これはどこまでも私の勤めるべき役であると思って、信心をしていけば、そこからおかげがいただける。』


中国・唐の時代、大寧院可弘(だいねいいんかこう)禅師に、弟子の一人が問いました。

「この道さえ歩いてゆけば、絶対にまちがいのない、真実の道とは、一体どのようなものでしょうか」

禅師はたった一言答えました。

「七転八倒(しちてんばっとう)」(七回転んで八回倒れる)と。


普通なら、何度転んでも起き上がる「七転び八起き」という言葉を期待するところですが、

禅師はそうではなく、転びっぱなし、倒れっぱなしの「七転八倒」。

つまり、失敗の連続こそが真実の道だ、と弟子に教えたのです。


確かに人間というのは、どこまでいっても未完成、不完全であり、

生きていれば必ず、転んだり倒れたりを繰り返すものであります。


しかし、それでもなお、禅師が「七転八倒」を勧めたのは、

その転んで倒れることの中にこそ、私たちが人間的に成長できる面がたくさんあるからではないでしょうか。

例えば、病人へのお見舞いでも、自分も同じ病を患ったことがあれば、

心のこもった慰めの言葉が出てくるものです。

そして、そのように人を慰めることで自分が慰められるという働きにも気付くことが出来るでしょう。

それは「病」という一つの石に転んで倒れた経験のおかげなのですね。


肉眼で見れば「災難」であることも、信心の眼で見れば、

それは神様から与えられたプレゼントなのです。

七転八倒する出来事の中に、どれだけの願いが込められており、飛躍の種が隠されていることか。

このことに眼を向けることが信心であります。


一見マイナスに見えることの中に、実は大きなプラスがある。

そして自分にプラスになったとき、自然と「おかげさま」が口に出ます。

転ぶことも「おかげさま」。

倒れることも「おかげさま」なのです。

苦労は幸せの種

『桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。

桜の花は早く散る。

梅の花は苦労しているからすぐには散らない。』


梅の花は厳しい寒さの中を耐えてつぼみを付け、

長く咲き、素敵な香りを私たちに届けてくれます。

更に花が散った後には梅の実が残り、私たちの健康の役にも立ってくれる。


花も人も、厳しい状況を懸命に耐え、そして乗り越えていくところに、

真の喜びや生き甲斐が訪れるのではないでしょうか。


雨の日に、「今日が良い天気だったらなぁ…」と今の天気を嘆いたところで

成長はありませんし、幸せにもなれません。

雨の日には、快晴とは違った別の眺めがあり、趣がある。

雨が上がった後には、美しい虹が見えるかも知れないのです。


木の中にも、樹齢何百年という木がありますね。

長い歳月をかけてそこまでになり、もう押しも押されもせず、

風が吹こうが雨が降ろうがビクともしない。

今はただ、その木がそうして栄えているだけで、その土地の品位を高め、

周囲に人が集まり、神木と呼ばれて、人から手を掌わせられたりもする。


しかし考えてもみて下さい。

そのような立派な木にも当然、双葉の時期もあり、苗木の時期もあり、

若木の時期には僅かな風にも折れそうになり、日照りには枯れそうになり、

どうなるかと周囲から心配された時期もあったはずですが、

それを耐えに耐えたからこそ、ここまでの成長があり、今日を迎えているのです。


このことを考えると、私たちもこの自分自身を

しっかりと育てさせて頂くことが大切だと思います。


仕事をさせて頂くのでも、

難しい方を選択させて頂いて先に苦労させて頂きますと、心も技術も鍛えられて、

また有頂天になることもなく努力を続けることが出来るようになる。

結果として、先に楽を取るよりも、長く働かせて頂くことが出来るのです。 


梅の花のように長く咲いてお役に立つ様に、

それぞれに与えられた苦労をしっかりと味わい、精一杯勤めさせて頂きましょう。

その苦労は楽の種、幸せの種ともなるのですから。

かみしめれば味がわかる

『信心はかつお節と同じことである。

かみしめれば味がわかる。』


信心というのは、読んだり聞いたりするだけではどうしても分からないものです。

身の上に起きて来る事柄を通して、その中にある「有り難い」ものを自らの心で受け取らせて頂く。 

苦しい時に教えを聞いて、心のもつれが解けたような、

有り難い気持ちがしたというその時に、その正体をとらえて味わわなければなりません。


そして、そのコツを自分が押さえて、いつでも心のもつれの解ける人間にならせて頂けたとき、

はじめて信心が分かったと言えるのではないでしょうか。


例えば、誰かが腹立ちや憎しみを自分の前に持って来た時、

こちらに信心がない間は、こちらにも腹立ちや憎しみの心が起こってまいります。

しかし、こちらに信心があれば、相手から腹立ちや憎しみを仕向けられても、

それを解かして、さらにはこちらの信心を相手に及ぼし、

信心にならせるだけの働きをすることが出来るようになる。


誰かが心配すれば、こちらも心配をするように、人の心というのは伝染するものです。

心配したり、腹が立つのが伝染するだけではなく、有り難い心も伝染するのです。

相手の心配や腹立ちがこちらに伝わるよりも強く、

こちらの有り難い心が相手に伝われば、相手の方から変わっていくのです。


真の信者(信心生活者)というのは、信心が自分の生活となって

そのような働きをするようになって来ることであります。


不足が出るところが不足が出ない。腹が立つところが腹が立たない。

わが心で自分の心の内から、有り難い心(信心)が湧き出るようになる。

火は自身が暖かいばかりでなく、周囲のものも暖かくします。

自身が明るいとともに、周囲のものまで明るくするのです。

信心する者も同様に、自身が有り難いばかりではなく、人をも有り難い心にならせることが出来る。


難儀とは、信心を分からせて頂くために差し向けられるのです。

しっかりと味わわせて頂きましょう。
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