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和の心

『おかげ(幸せ)は和賀心にあり。和はやわらぐで、賀は祝賀の賀である』

日本人の良さのひとつに、「和」の精神が挙げられますよね。

「和」とは、二つのものが一緒になるということ。

人間関係で言いますと、お互いに分かり合い、助け合って生きるということです。


そして、「和」の精神を表した形が円です。

車輪が四角だったら、車は前進しません。丸いからこそ前進できるのです。

人においても同じことで、角のある人はどこにいっても、あらゆるところであらゆる人とぶつかる。

心に円を描けば、この人生を悠々と生きていくことができるでしょう。


しかし今の世の中、

『そんな考え方は甘い。競争に勝たなければ、幸せになれない』

という考えの方が主流なのです。


何故なら、人よりも努力し、抜きん出て、勝ち続けなければ幸せは手に入らないものだと、

幼い頃から信じ込まされてきたためです。

人と競うことが好きな人はそのような生き方でもよいかも知れませんが、競争にはきりがありません。 

金や地位を得ることを目的とするのも同じことで、

それはどこまで追って行っても上には上があって、

ついに最後の満足は得られることなく、人生は空虚な夢想に引きずられていくに過ぎません。


人間の価値というのは、勉強や仕事ができるからとか、何か数字で判断できるようなものではなく、

あらゆるところにその人の素晴らしい個性や存在価値を見つけることができるのです。


幸せとは、今この瞬間、周囲の人や出来事に対して感謝できている心の状態を言います。

自分のために人と競い合うよりも、人のために何かをしてあげることで喜ばれ、

自分自身も人の好意に素直に甘えてそれに感謝して生きる方が、

豊かな人生と言えるのではないでしょうか。

この人生は何を手に入れたかで決まるのではなく、

他人とどのように関わったかで決まります。

日々、自らの心を和らぎ喜ぶ心にしていくことが幸せになる秘訣なのです。

神心を知る

ここに大変仲の悪い二人が居たとしましょう。

二人とも心の底では、お互いに仲良くしたいと願っているのですが、

その方法については、自分に近いように、自分の好きなように、

相手に変わって欲しいと願っています。


しかし、二人の人間が同じ考え方、価値観になることは実際には大変難しいことであり、

ここに人心の限界があるのです。


では、二人が永久に仲良くなることが出来ないのかと言えば、そんなことはありません。

共に助かる道が必ずあるのです。


そのためには、二人を包み込み、そのままの考え方、価値観を受け入れ、

愛してくれる力が分かれば、相手をそのままに許すことが出来るようになる。

それが神心を知るということです。


もし仮に片方の考え方、価値観を

無理矢理もう片方と同じようにしたところで、

本当に二人の仲が良くなるかと言えば、それは決して長続きしないものです。

じきに必ず壊れます。何故なら、それがそもそも無理な解決法だからです。


例えば私が妻と本当の夫婦になろうとするならば、

妻には誰よりも彼女本来の生き方をしてもらわなければならないと思うのです。

私の勝手な好みや考えで押さえつけ、妻本来の生き方が出来ないようにしてしまって、

どうして妻との間に愛を成立することが出来るでしょうか。

彼女がしっかりとした独立した人格として生き切ってくれてこそ、

そしてこちらも一個の男として生き切ってこそ、二人の間に愛というものが成り立つのです。


本当の仲というのは、夫婦であれ友人であれ、

相手を生かし、自分を生かし、生きる上で一つになることであります。

相手を変えよう、従わせようとするのではなく、そのままを受け入れ、

許すところに人間が助かる道があるのです。


お互いの長所短所も、見え方が違うだけでお互いが持っているものなのです。

それをそのまま愛して下さる、許して下さる神様がおられる。

自分も有り難いが、相手も有り難いものだという心持ちになれば、

決して無理が無く、相手と一つになることが出来るでしょう。

神様が準備してくださる「休憩所」

人生はしばしば登山に喩えられますが、実際に山登りをさせて頂きますと、

ただひたすら登り続けるというものではないことに気付かされます。


どのような山を登らせて頂いても、

ある程度登ったところで必ず平らな場所が用意されている。


おそらくそれは、山を登った先人たちが、後から登る者たちの為に、

ちょうど良い距離、ちょうど良い場所に「休憩所」として準備して下さったものなのでしょう。


人生で言えば、成功を求めて一生懸命に頑張っている時とは、

まさに山に登っている最中であります。

しかし時に様々な理由から登れない時がある。山でいう平らな場所に出逢うのです。


人によってはその平らな場所のことを、挫折とか失敗だとか言ったりするのですが、

決してそうではありません。それは神様が準備して下さった、言わば「休憩所」なのですね。


休憩所の休憩所たる値打ちは、そこでこれまで進んで来たことを整理して、

そこから更に次に進んでいくための用意をするところにあります。


今より高い場所に登るために必要だからこそ、

神様がわざわざその休憩所を準備して下さっているのです。

ここでしっかりと今までのことを省みて、感謝させて頂かなくてはもったいない。


ここまで登ってくるためにどれだけの人が力を貸してくれたか、助けてくれたか。

目には見えぬ働きにどれだけ自分が助けられてきたか。

そのように、自分自身に問うてみてはいかがでしょうか。

自分と他者、自分と自然との関わり合いを見つめ直すことで開けてくる人生があります。

自分を生かす無数の働きに目を向け、耳を傾けることで、

もちつもたれつ、「お陰様」の本当の姿が見えてくるのです。


夏の暑い太陽の直射も、大樹の茂る枝葉が涼しい陰をつくってくれます。

その働きを、恩恵として受けとめて、「お陰様」となるのです。


山を登ることに必死になっていた時には見えなかったもの、聞こえなかったもの。

そこに気付かせて頂く、再確認させて頂くところに人生の休憩所としての値打ちがあるのです。

魂の書いたシナリオ

『人間は、生まれるときに証文を書いてきているようなものである』

「出来事には必ず教えがある」という言葉があるように、

この人生の中で、悩んだり、迷ったり、苦しんだりした時、

この出来事は「自分に何を教えているのか」と考えてみることが大切です。


その際、自分の人生は、

自分の魂が書いたシナリオ通りであると信じることができたならば、

心はとても楽になります。


自分の魂の書いたシナリオ通りであるなら、

過去を悔やむこともない。未来を案ずることもない。

何故なら、自分の魂の成長のために、

最良、最高、最適なシナリオを神様とご相談のうえ決めて、

この世に生まれてきたのですから。


そのように考えると、「死ぬ」ということも実は不幸ではないのです。

死ぬこともすべて、生まれる前に「自分が書いたシナリオ」なのです。


ですから、不運・不幸で死ぬのではなく、シナリオ通りに死んでいく。

死ぬのは、事故でも病気でも老衰でもなく、「寿命」しかないのです。


幼い子どもを亡くすというのは親にとってこれほど辛いことは無い。

出来ることなら自分が代わってやりたいと思うのが親心というものでしょう。

しかし、実はそれも、

「子ども自身が生まれる前に書いてきたシナリオ」であり、

親も同様に、「子どもを先に逝かせる」というシナリオを

書いて生まれてきたということになります。


残された親は悲しむのは当然なのですが、

その悲しみを乗り越えられるかが問われているのです。


亡くなった子どもは、悲しみだけでなく色々なものを親に与えにきてくれたのです。

悲しみの体験を通じて、その親は他の悩みや苦しみを抱える人たちの

人生相談に乗ることができ、優しく慰めることが出来るようになる。

そのような親になってもらうことこそが、亡くなった子どもの願いなのですね。


不幸にしか見えない事柄の中に、どれだけの恩寵があることか。

その苦悩や絶望が縁となって、神様の願いに気付かせていただき、

そこから自然と手が合わさるようになるのです。

幸せになる方法

メーテルリンクの『青い鳥』というお話をご存じでしょうか。

貧しい家に育ったチルチルとミチルの兄妹が、

数々の冒険の旅を経て、結局どこに行っても捕まえることが出来なかった幸せの青い鳥は、

家に帰ってみたら、庭先で鳴いていたというものです。


童話はここで終わるのですが、原作にはその続きがありまして、

家にいたその青い鳥も結局逃げて、居なくなってしまいます。

そこで話が終わります。

つまり、幸せというのは、自分の外の世界をいくら一生懸命探したところで

結局見つからないものだということです。これは大切な教えですね。


幸せになる方法とは、

「あれがほしい、これがほしい」

「あれが足りない、これが足りない」

と言わないことです。


例えば、目が見えること、耳が聞こえること、自分の足で歩けること、

自分の手で物が持てること、食事ができること、家族や友人がいることなど、

普段「あたりまえ」だと思っていることに感謝することができれば、

日常生活は「幸せ」に満ちていることに気がつくはずです。

何も起きない、普通で平凡な日常こそが、実は、「幸せ」の本質なのです。


「不幸せ」というのは、何かしら不足がある状態のことをいいます。

「自分には足りないものがある」と思い込んでいる状態のことです。

お金が足りない、モノが足りない、他人からの親切が足りない、

生きて行く中で足りないものを並べ始めたらキリがないくらいでしょう。

しかし、その不足を言っているものは自分にとって本当に足りないものなのか、

ワガママを言っているだけなのか。

ここのところをよく考えなくてはなりません。

無いものへの不足ではなく、現在(いま)手元に有るものへの

御礼を土台に生活を送っていく人を、信者(信心生活者)というのです。


「こうでなければイヤだ」

「どうしてもこうなってほしい」

と思う執着から解放された時、

自分がどれだけ恵まれているかが分かり、

そこから自然と手を掌わせるようになるのです。
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