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意見を述べる者には、必ず非難がある

『人の心は移り変わりやすいものである。

 その、人を頼りにするから、腹を立てたり物事を苦にしたりすることになる。人に向かう心を神に向けよ。』


自分の心の内に、「認められたい」「理解してもらいたい」

という相手への期待があるのに、その通りにならない。

それどころか非難までされる。

しかし、よく考えてみますと、世の中すべての人から認められ、理解してもらえる、

などというのは幻想ですので、そのような甘えや期待を捨ててしまえば、

もっと楽に生きられるようになります。


「誰にも非難されない人」なんて歴史上一人もいなかったですし、

これからもそのような人など出てきません。


意見を述べる者には必ず非難があり、どんな見解に対しても必ず反対意見が出る。

これが現実です。


自分にとっての「好き」を語るということは、必ず誰かの「嫌い」を刺激することになる。

非難する相手は相手で、自分の意見と違う意見を聞いて、それなりに傷つき、

自分自身を納得させたいために攻撃的になっているのです。

それは世の中の仕組みで仕方のないこと。

苦しいけれど、受け入れてしまいましょう。


沈黙していれば「むっつりしている」と非難され、

たくさん話せば「うるさい奴だ」と非難され、

ニコニコしていても「何か裏があるに違いない」と非難される。

そのような人の心を頼りにしたところで、自分が苦しむだけなのです。

信心とは、何かに頼る心ではありません。

相手にこちらの思うように動いてもらおうとするのではなく、

むしろこちらが相手の思うように動きたいと願うことです。

挨拶でも、親切でも、仕事でも、こちらからさせていただくところに

人間の本当の幸せがあり、喜びがあります。



本当の夫婦関係、友人関係というものは、お互いに頼ろうとはしないものです。

相手を頼ろうとしないで、むしろこちらが相手の頼りになろうとする。

そういう人間同士が一緒に生活をして、友人となり、夫婦となり、親子となった時に初めて、

それが本当に頼りになる関係となるのです。

日に日に生きる

『日に日に生きるが信心なり』

「自分には、取り立てて心配な事は無い」と言われる方がおられますが、

どんな人でも突き詰めて考えてみた時に、

「これでもう安心だ」と言い切れるものなど、実は何一つありません。

健康のこと、経済のこと、人間関係のこと、家族のこと。

どれ一つをとってみても、これでもう心配はいらないと保証し得るものなど何も無いのです。


「何も言うことが無い」ということも、言ってしまえば、

今はたまたま異常な事態に出逢っていないというだけのことであって、

一度異常な事態が起きてくれば、その苦しみを背負って生きていかねばなりません。

元来、人間は、わが身がわが自由になるものでないのです。

だからこそ、今日の命を有り難く、日に日に感謝して生きていくことが大切なのですね。


一日一日、日は経つ。

夜が明けて日が暮れる。

毎日が同じことの繰り返しのように思われるのですが、決して同じではない。

この「同じではない」ということが大切なところであります。


しかし、仕事でも交際でも慣れてきますと、

一番大切な「同じではない」という思いが抜け落ちるのです。

一日一日、その時その時が新たなのだ。

決して当たり前ではない今この時を、神様のおかげの中で生かされて生きているのだ。

その思いが抜け落ちてしまっては台無しなのです。


一番大切なことは、その今日一日の生き方がどうなっているかということ。

出掛けて家に帰る時にも、今朝出た時よりも、

帰るときにはもっとよい私になって帰ろう。

そのような気持ちで一日を過ごさせていただく。

ですから、「ただいま」と言うことでも、

今までに何千、何万回と言った言葉かも知れませんが、

これまでに言ったことのない「ただいま」を心掛けていく。


そうすることで、一日一日の生活全体が、だんだんとよくなっていく。有り難くなっていく。

 「生きる」という字は「生む」とも読みます。

日に日に感謝の心で喜びを生んでいく生き方こそ、我々が求めているものなのではないでしょうか。

御霊様に命を吹き込む

『死ぬということは、もみを臼(うす)でひいた時、

 殻と実とが分かれるようなものであり、

 時が来れば魂と体とが分かれるのである。』


人は誰でもいつかは必ず死ぬ。しかし、いつその時が訪れるのかは誰にも分かりません。

唯一つ言えることは、人が死ぬということは、

その人として一度は必ず出逢わなければならないことに出逢われたということです。


『殻と実とが分かれるように、時が来れば魂と体とが分かれる』

というのは、死は人生の最後に来るのではなく、

最初から時々刻々、常に生と離れずに付きまとっているということです。


ですから死の問題というものが生きることと別にあるわけではなく、

実はそれは生の問題であって、本当に良い生き方が出来れば、

それが同時に良い死に方にもなっているのです。


愛する人が亡くなることは、

生きている者の心情としてはこれ程つらいことはなく、これ程淋しいことはない。

しかし、信心の眼で見れば、死んだからといって、どこへ行くわけでもない。

目には見えなくとも、声は聞こえなくとも、共にこの時を生きているのです。


本当に『会う』ということは、相手が見えるかどうか、

相手と話すことが出来るかどうかではなく、ひとつとなって生きて行くということです。


同じ家に毎日一緒に暮らしている家族であっても、

顔を見るのも嫌だと言い合っているようでは、

本当に会っているとは言えないでしょう。


亡くなられた方とでも本当に会える道がある。一緒に暮らせる道がある。

それが信心なのです。一心に信心させて頂けば、

今まで死んでいた者が、皆そこに生き返るのです。


仕事をしているときも、台所に立っているときも、いつもそこに一緒にいる。

寝入るときには傍で優しく見守り、困った時には助けてもくれる。

御霊様に命を吹き込み、それだけのお働きをしてもらうには、

まずは自分自身が精一杯、前向きに本気の毎日を送らせて頂くこと。

そのとき人は本当に生きたと言えるのであり、

亡くなられた方に対しては本当の弔いともなるのです。

「我」の弱点

『何事にも我を出すな。

 …天地の心になっておかげを受けよ』


我というものは、一つの事にこびりついて動かぬことを言います。

物事に対して、こうでなければならない。こうあるべきだ。

そのような自分勝手なこだわりから、心配や不足の心が出てまいります。


あの人はこうだ、こうあるべきだ、と決めつけてしまう心があるために、

その人のことで色々と困ったり腹を立てたりしなければならなくなります。


もしも、それがもっと広い心にならせて頂ければ、

相手が何か自分にとって困ることをしたとしても、何故そういうことをしたのだろうか、

何か訳があるに違いないと、その周囲の事情や、相手の性格などを考えて、

十分に察することも出来るでしょう。

一人の人間を相手どって、ああだこうだと責めないで済むようになるでしょう。

そのようになってはじめて、人間関係で助かりを得たと言えるのです。


では、どうすれば「我」を出さないようになれるのか。

ここが肝心ですね。

そもそも「我」とは、自分の力で生きているのだと勘違いするところから生まれてくるものです。

自分の力や努力のおかげでここまで来た。欲しいものを手に入れた。

周囲の役にも立っている…。

「我」が無い人間はいませんが、一生懸命頑張る人ほど、「我」も強くなりやすいのです。


さらに「我」のタチの悪いところは、その性質上、外からは決して壊せないのです。

それが故に、人から諭されようが、責められようが、

かえって一層「我」を募らすことになるばかりなのです。


そのような強力な「我」というものにも唯一の弱点があります。

それは「詫びる」ということ。

自らの「我」を詫びる時、不思議と消えるのです。


ですから、信心とは、自らの我を詫びていくことと言っても過言ではありません。

そのために教えを聞くのです。

山を流れる川の水のように、途中の岩や木の根にぶつかりながらも、さらさらと流れていく。

そのような何事にもとらわれない在り方こそ、私たちの求めてやまぬ生き方なのです。
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