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真に教養のある人

ある雑誌の中で、中学校の教師が生徒との次のようなやり取りを載せておられました。

「先生、勉強って何でしないといけないのですか?
お母さんが勉強しろ、勉強しろってうるさいんです」

「そりゃ、勉強しないと、良い学校に入れないよ」

「良い学校へ入って、何をするんですか?」

「そりゃ、卒業して立派な社会人になるんだよ」

「立派な社会人って、何ですか?」

「そりゃ、立派な家に住んで、幸せになるんだよ」

「つまり生活を楽しむってことでしょう」

「うん、まぁそういうことになるね」

「そしたら僕、今でも勉強しない方が生活楽しいから、勉強はしません」

生徒からこのように言われて、その教師は返事が出来なかったとありました。

さて、皆様でしたらこの学生にどのような言葉をかけられるでしょうか。



私はこのお話を読ませて頂いて、

はて、人間の喜びとは、自分が豊かな生活を送り、

楽しむことにあるのだろうかということを思わせて頂きました。


考えてもみますと、私たちは生まれてから今日に至るまでに何度、

皆から「おめでとう」と言われてきたことでしょうか。

生まれた時、本人は何も知らないのに、皆がおめでとうと喜んでくれる。

小学校へ入る時もおめでとう、卒業する時もおめでとうと喜んでくれる。

中学校の時、高校の時、結婚する時も同じです。

皆、おめでとうと喜んでくれる。

このように「おめでとう」というのは、自分一人だけのものではないのです。

自分の喜びが、自分だけのものでなく他人の喜びとなったときに皆が喜び合う。

それが、めでたいということであり、人間の喜びは実はここにあるのです。


人のお世話になって生きているのが人間ですから、

人のお役に立つ為、人の喜びの為に人は勉強するのです。

そして自分に恵まれた力を最大限発揮し、

より人のお役に立つ為に、自分にとってより良い学校、より良い会社に入らせて頂くのです。

人間の喜びとは決して自分だけのものではありません。

真に教養のある人とは、

自分の喜びを他人に分けてあげられる人のことを言うのです。

人は褒められたくて生きている

このような格言があります。


「おだてられれば、あなたを信じない。

批判されれば、あなたを嫌いになる。

無視されれば、あなたを許さない

勇気づけられれば、あなたのことを忘れない。」


激励すれば人がついてくる。

逆に賞賛や激励がなければ人はついてこない。

これって当たり前なことなのですが、ついつい忘れてしまうのですよね。

人は褒められたくて生きている、ということを。


褒められ、自己重要感が満たされることこそ、人が求めてやまないものなのです。

ブランドの服を着たり、人より少しでも高いステータスを求めたりするのも、

自己重要感を満たしたいということに尽きます。


仕事をしている時だって同じです。

オフィスの掃除をしている人が

「いつも綺麗にしてくれて本当にありがとうございます」

「気分よく仕事ができます」

と言われると、その人の自己重要感が満たされるのです。

他のどんな仕事だって、根本は同じ。


誰もが心の奥底では、他人に認められ、褒められたい。

自己重要感を求めて生きているのです。


『生神とは、ここに神が生まれることである』


神様というのは我々人間とは別にあるように思われていますが、

そうではなく、人間の中に現れる神様、生きた神様なのです。


大切なことは、相手の中の神様を信じること。

その神様が現れ出る手助けをすることです。


傷つけられたとき、あなたはやる気がでますか?

出るのはせいぜい「あいつ、いつか覚えていろよ」という恨みだけですよね。

欠点をいくら言われても、自信を無くして傷つくだけ。

それが褒められると、能力以上の力を発揮するのです。


褒めることで、その人の自己重要感が満たされ、自信が生まれる。

その人の一番よいもの、よい働きが現れ出るように祈りながら、褒めてあげましょう。

生命のバトン

坂村真民さんの詩にこのようにあります。


あとからくる者のために

苦労をするのだ 我慢をするのだ

田を耕し 種を用意しておくのだ

あとからくる者のために

しんみんよ お前は 詩を書いておくのだ

あとからくる者のために

山を川を海を きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために

みんなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる

あの可愛い者たちのために

未来を受け継ぐ者たちのために

みな夫々自分でできる何かをしておくのだ



私たちの人生の長さは人それぞれ違いますが、

どんな人生も必ず途中で終わりを迎えます。

ここがゴールなどというものはありません。

私たちに出来ることは、何億年と続く生命のリレーの、

自らに与えられた一区間、この人生をどのように走るか、走ったかということに尽きます。

リレー走者が心掛けることは何か。

それは、バトンを手渡す者たちの為に何が出来るかということ。それに尽きるのです。


自分から人に何かしてあげなさい、などという教えを聞くと、

なるほど確かにそれは善いことには違いないが、こっちが損じゃありませんか、

と思うのが人の心というものです。

しかし、そう思うのは教えの本当の意味が分かっていないからなのです。


人に親切にするということは、自分自身が嬉しい。

進んで人の役に立とうとすることを、自らの生命が求めている。

そのことを私たちに気付かせようにするのが、教えの根本なのです。


人に親切にし、進んで仕事をしようとするとき、

自分の中から大変よいものが湧き出る。

それが嬉しさとなり、幸せとなるのです。

生命のバトンを繋ぐ一走者として、自分に何が出来るのか。

いつからでも遅くはない。そこにこそ、本当の幸せがあるのです。

神様に恥じない生き方

東井義雄さんの詩に、
『「ほんもの」と「にせもの」』というものがあります。


「ほんもの」と「にせもの」は

見えないところの在り方で決まる

それだのに「にせもの」に限って

見えるところばかりを気にし 飾り

ますます「ほんとうのにせもの」になっていく


人間の品というものは、その人全体から出るもの。
生命全体の言わば調子なのであります。

人間、自分のやましい部分は隠そう隠そうとするものですが、
隠したいと思うものほど、実は表に出てくる。

お金・モノの扱い方、性生活や家族への接し方…。

自分の生命と密接に繋がっている事柄ほど、
隠そうとしても必ず表に出てくるのです。

それらを正しくしている人は、
それがだんだんとその人の生き方の調子となって表れてきて、
次第に品の良い生き方となる。

逆にそれらを乱していると、
それがその人全体の生き方、調子の狂いとなって表れてくる。
そこで品が悪くなっていくのです。

他に知れる、知れぬの問題ではありません。

知られるか、知られないかは、
隠しさえすればごまかせるかも知れない。

しかし、誰に知られなくとも、
自分の生命の芯に狂いが生じたらどうにもならないのです。

財力があっても名声があっても、
生命それ自身が狂ってしまったら、
どうすることも出来ません。

「にせもの」の横道は
この人生にいくらでもありますが、
それらは皆やがては必ず行き詰まる。

その行き詰まりは大変苦しいものでありますが、
実はそこが有り難いのでありまして、
行き詰まるからこそ引き返す気にもなるし、
神様を信じることも出来るのです。

信心をさせていただくということは、
この天地の神様に恥じない生き方を
させていただこうと心掛けることであります。

どんな時も、「神様が見ておられる」と
わが心に問うことなのです。
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