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「叱る」心得

『子の頭を叩くより、
親である自分の頭を叩けば、
すぐおかげになる』

昭和を代表する評論家、亀井勝一郎氏は
「叱る」ことについて、

「人を叱る資格など自分には無いと痛感することが大切である」

と言っておられます。


親は子どもに、上司は部下に対し、
「叱る」ことによって彼らの成長の手助けをすることも
大切な役目の一つではあります。

しかしその叱り方を誤れば、
成長するどころか相手をただ傷つけ、
人間関係まで壊してしまいかねません。

そこで亀井氏は、
叱る前にまず自分を見よ、と教えているのですね。

まず自分自身を省みて、
自分自身を叱った上で、相手を叱る。
大切なことは自分自身を見ること。
ここが肝心なところであります


日本の古い諺にもあります。

「子ども叱るな 来た道じゃ
年寄り笑うな 行く道じゃ」


「子ども叱るな」とは、
子どもを叱ってはいけないということではなく、
子どもを叱る前に、
自分も同じ年の頃には同じようなことをしたのだと、
自分自身を振り返ってみよということです。

「年寄り笑うな」とは、
自分も年をとったら目の前の年配者のように、
もの覚えが悪くなったりもするのだと、
自分を相手に同化させて見てみよということです。

つまり、相手を見るときには、
自分の過去と未来の延長線上でその人を見るようにする。

そうすれば、
相手に対する注意の仕方も大きく違ってくるでしょう。

頭からやみくもに怒鳴って責めたりするのではなく、
愛情と寛容さをもって、落ち着いて接することができるはずです。

自分をしっかりと見つめれば、人を叱れるほど立派な人間ではない。
そんな未熟な自分が役割の上で相手を「叱らせて頂く」のであります。

その心持ち、
「とても人に偉そうに言えるような私ではありません」
と本気で思えた心持ちになってはじめて、
相手の心にも響くものが必ずあるはずです。

理想は「円」となる

心を丸い円に喩えたとき、
「幸せ」とは、その円が満月のように真ん丸な状態を言います。

「円満」という言葉があるように、
満ち足りていて不足がない状態を「幸せ」と言うのですね。

それに対して「不幸せ」とは、
何かしら不足があるために心の円に穴が空いていて、
半月になったり三日月になったり、
人によっては、かじられ尽した林檎のようになっている。 

では、そのように心の円に穴を空けている不足の正体とは
何かと言いますと、
それは「自分の期待通りにならない」という思い。
これに尽きる。

不幸せな人というのは、
何かしら不足を言われるものですが、
それらはすべて、自分の期待通りに
人、モノ、お金が動いてくれないというものであります。 

しかし、そのような自分の不足というものを
一体誰が埋めてくれると言うのでしょうか。
結局は、自分でしかその穴は防げないのです。

幸せになろうとしながら、
人を当てにしては不足を言って、
幸せになれない心の在り方になってしまっている。
これが「迷い」なのですね。

そうではなく、
「人から何かしてもらおうと思わなくても、
この自分自身の中に限りのないお恵みを頂いているのだ。
私の中から、どんなことでもしようという心が出てくれば、
何だって出来る。
無限に良いものを私は授かっているのだ!」


このことに気付かせて頂くことが信心であり、
そこに至ってはじめて、
自分の不足というものが無くなる。

穴が埋まって円満となり、幸せになれます。


『おかげ(幸せ)は和賀心にあり。
和はやわらぐで、賀は祝賀の賀である』


「和」とは、二つのものが一緒になることですが、
その「和」の精神が表された形が円です。

車輪が四角だったら、車は前進しません。
丸いから前進できるのです。

人においても同じことで、心に輪を描けば、
人生を生き生きと生きていけます。

人生で出逢う人・事柄を通して、
角のない人間にならせていただきましょう。

和らぎ喜ぶ心、丸い円のような心を理想とさせて頂きましょう。

生命のバトン

坂村真民さんの詩にこのようにあります。


あとからくる者のために

苦労をするのだ 我慢をするのだ

田を耕し 種を用意しておくのだ

あとからくる者のために

しんみんよ お前は 詩を書いておくのだ

あとからくる者のために

山を川を海を きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために

みんなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる

あの可愛い者たちのために

未来を受け継ぐ者たちのために

みな夫々自分でできる何かをしておくのだ


私たちの人生の長さは人それぞれ違いますが、
どんな人生も必ず途中で終わりを迎えます。

ここがゴールなどというものはありません。

私たちに出来ることは、
何億年と続く生命のリレーの、
自らに与えられた一区間、この人生を
どのように走るか、走ったかということに尽きます。

リレー走者が心掛けることは何か。

それは、バトンを手渡す者たちの為に何が出来るかということ。
それに尽きるのです。

自分から人に何かしてあげなさい、などという教えを聞くと、
なるほど確かにそれは善いことには違いないが、
こっちが損じゃありませんか、
と思うのが人の心というものです。

しかし、そう思うのは
教えの本当の意味が分かっていないからであります。

人に親切にするということは、
自分自身が嬉しい。

進んで人のお役に立とうとすることを、
自らの生命が求めている。

そのことを私たちに気付かせようにするのが、
教えの根本なのです。

人に親切にし、進んで仕事をしようとするとき、
自分の中から大変よいものが湧き出る。
それが嬉しさとなり、幸せとなるのです。

生命のバトンを繋ぐ一走者として、自分に何が出来るのか。
いつからでも遅くはない。
そこにこそ、本当の幸せがあるのです。

守られて生かされて

『人の身が大事か、わが身が大事か。
人もわが身もみな人である。』

これは、みんな同じ人間なのだから仲良くしましょうという意味ではなく、
「自分」や「他人」という区別などそもそも無いということです。

私たちの「いのち」というものは、
他の多くの「いのち」と繋がり、守り合い、支え合って存在しています。 

それは、私たちが気付こうと気付かまいと、
私たちを生かそうとする働きがこの天地の中に満ちわたっていて、
その働きに守られて、生かされて生きている私たちなのですね。

それを、「自分のもの」とか「自分の力で」とかに限定するところから、
周囲との関係が見えなくなり、聞こえなくなっていくのです。

自分と他者、自分と自然との関わり合いを
見つめ直すことで開けてくる人生があります。

夏の暑い太陽の直射も、
大樹の茂る枝葉が涼しい陰をつくってくれます。
その働きを、恩恵として受けとめて、「お陰様」となります。

自分を生かす無数の働きに目を向け、
耳を傾けることで、もちつもたれつ、
「お陰様」の本当の姿が見えてくるようになるのです。

神様が分からぬ、信心が分からぬということなど、
さしたる問題ではありません。

大切なことは、この自分というものが、
ずっと守られ、育てられ、「生かされて生きている」ことに気付くことです。

身近なところだけでも、今こうして生きていられるのは、
両親やご先祖さまが守って下さったお陰なのです。

さらに言えば、木や石など、すべてのものが自分を守ってくれている。
それが分かるようになることが大切です。

そして、守られて生かされていることを有り難いと思えたならば、
次はその恩に報いていきましょう。
それが信心です。

なんでもよろしい。
それぞれの人が、それぞれの持ち場立場で、
出来る限りのことを、世の中にお返しさせて頂けば、
それでよいのです。
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