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子供とともに成長させていただく

相田みつをさんの詩に、このようにあります。

アノネ
親は子供をみているつもりだけど、
子供はその親をみてるんだな
親よりもきれいな、
よごれない眼でね 

子供というのは、親が子供に対して思っていることが、

本当に自分への愛情なのか、親自身の自己愛なのかということを、非常に敏感に感じ取ります。


親はともすると、自分が果たせなかった夢を子供に託したりして、

自分が持ち合わせなかったような、

無理難題ともいえる要求を子供に課してしまいがちではないでしょうか。


しかし本当は、子供をそのまま、子供のありのままを受け入れて、信じてやればそれでよい。

それだけでよいのです。


たとえ子供が親自身の弱点や欠点ばかりを受け継いだとしても、

「私の子供の頃にそっくり同じ。やっぱり親子やなぁ」

と肯定的に思いながら育ててやれば、さぞかし子供は、

楽な気持ちでのびのび育つことができるでしょう。


子供は親が「思っている」通りに育つと言われますが、「望んでいる」通りには育ちません。

ですから、子供のことを信じてやりさえすれば、「信じられるような」子どもに育っていく。

それを、『心配だ、心配だ』といって信じてやらないから、

「信じられない」子どもに育っていってしまうのです。


生きとし生けるもの、存在するもの、皆、

神様のお造りになられたものなのですから、

みんなそのままで美しいのです。


可愛い子ども、素晴らしい子どもだと、

こちらに感じとれる心があれば、

子どもはみんな、そのように育っていくのです。


子供を授かってはじめて人は親になる。

言わば、子供とともに生まれ、子供とともに成長させていただくのであります。

そのような謙虚な心で子育てをさせていただきましょう。

おこること みなよし

陶芸家の河井寛次郎(かわい かんじろう)の言葉にこのようにある。

鳥が選んだ枝

枝が待っていた鳥

一つの木の枝に鳥が止まっている。

ただそれだけの風景ですが、鋭敏な陶芸家の眼は、その風景を見たときに、深い感慨を抱いたのでしょう。


空を舞う鳥が空中から自分がとまる枝を探して、数多くの枝の中から一つの枝を選びます。

鳥は自分がその枝を選んでとまったのですが、

実は相手(枝)もその鳥を選び、枝にとまらせたというわけです。


このことを人間に置き換えてみると、どうでしょうか。

人との出逢い、仕事との出逢い、モノや言葉との出逢い。

偶然にもその時々で、自分が選び取ってきたように思えるのですが、決してそうではない。

すべて差し向けられたものなのであります。


『あるもの みな美しく、 おこること みなよし(高橋正雄師)』


信心をさせて頂くということは、自分と物事との間に神様を見出すことです。

自分の好き嫌いで物事を受けとめようとしないで、起きてくることは全て神様のお差し向け、

そこに自分にかけられた神様の願いを受け取ろうとするから、

「あるもの みな美しく、おこること みなよし」と思える自分にならせて頂けるのです。


現実を変えることが出来なくても、悩みに対する心の持ち方を変えることはできます。

過去の出来事を捨て去ることはできなくても、とらえ直すことはできます。


結局のところ、出来事自体には良い悪いはなく、受け取る側の心にだけ、良い悪いがあるのです。

良いも悪いもないのであれば、「すべて恵まれてのことなのだから」と、

神様から頂いた「ご縁」として有難く受け取る心を育てていきましょう。

そうすれば、どのような境遇に置かれても、人は幸せになれるのです。

「我」の弱点

「我」とは自分の力で生きているのだと勘違いするところから生まれてくるものです。

自分の力や努力のおかげでここまで来た。欲しいものを手に入れた。

物事を一生懸命頑張る人ほど、このような考えに陥りやすく、

周囲からも「我が強い人だ」などと言われます。


そして、そのような「我」がある為に、相手が神であれ人であれ、

心から感謝する心にはなれず、また心から頭を下げることも出来ない。


「我」があるために、他の人と隔たりが出来、対立することが起こってくる。

またそこから様々な問題も生じてくる。


さらに「我」のタチの悪いところとは、

そうした自分の「我」に、自分自身が気付かないということ。


それが故に、人から諭されようが、責められようが、

かえって一層「我」を募らすことになるばかりなのです。


ただ、そのような強力な「我」というものにも、唯一の弱点があります。

それは、教えを聞いて自分自身で詫びること。


教えとは、この自分というものが、生かされて生きている我が身であった、

ということに気付かせるものです。

それが腹に落ちた時、これまでの自分を恥じて、詫びる心が必ず生まれる。

「我」というのは、自ら気付いて、恥じ、詫びることによって、不思議と消えてしまうのです。



お道の教えにこのようにあります。

『信心する者は本心の玉を磨いて信心しなければならない。

鉄でも磨けば銀のように見える。金銀も磨かなければ光がない。』


錆というのは、金属とくに鉄の表面が空気に触れて生ずる科学現象ですが、

空気のせいだけでなく、鉄自身がさびやすい性質を持っています。


さびやすい鉄でも、研いだり磨いたりを怠らないなら、

さびることなく光り続け、刃物ならよく切れるようになる。


同様に、迷いやすい私たちの心も、よい教えに研いで頂くことが大切です。

人間の心でいう錆とは、まさに「我」であります。

教えを聞かせていただいて、日々「我」を洗い流させていただきましょう。


仕事は神様とのお約束

中世ヨーロッパでは、仕事のことを「コーリング」と言ったそうです。

コーリングとは、召命(しょうめい)、神様に呼び出されることであります。

つまりその仕事を通して、自らの使命を果たすようにと神様から呼ばれて、

与えられたものという意味であり、与えられた仕事というのは、

仕事の内容を問わず、その人にとっては「天職」であったのです。


近年では仕事のことを、「利益がすべて。結果がすべて」などと言ったり、

「生活を保つための手段に過ぎない」などと割り切ったりする意見が、大変多いように感じます。


しかし、もし仕事のことを、利得や名誉などを得るための手段だと考えるならば、

仕事をすればするほどに、どうしても利己的になっていき、堕落していってしまうでしょう。


また、もし仕事を自分が生きていくための単なる手段として、

そのためにしなければならない重荷であると考えるならば、

いつまでたってもそういう仕事の仕方しか出来ず、またそういう仕事しか与えられないようになるでしょう。


お道の教えに、このようにあります。

『人間は、生まれるときに証文を書いてきているようなものである』

生まれてくるときに、自分はどのような働きをしてお役に立ってまいります、

ということを神様と約束してきたということです。


仕事で苦労することも、自らが証文に書いたことを達成できるように、

鍛練の場を与えられているのだ。

今の自分にとっての、最善、最高、最適の状況、仕事が与えられているのだ。

そうして、与えられた仕事に御礼をさせて頂くことが大切です。 


そのように仕事を喜んでさせて頂いていると、仕事のほうも喜んでくれて、

終始自分につきまとってくれるようになる、それが道理というものです。


「仕事」という字は、「仕」も「事」も「つかえる」と読みます。

では一体誰に仕えるのかと言えば、神様につかえるのです。

神様につかえる心で、与えられた仕事をまっとうする中で、人は「生きがい」を得るのです。

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