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良縁が生まれるとき

浄土真宗の開祖である親鸞が、

ある日、弟子の唯円(ゆいえん)にこのように言いました。

「お前は私の言うことを何でも聞くと言うが、それでは、人を千人殺してこい。

それができたら、お前の極楽往生は間違い無い」


唯円は師匠の言葉に驚いて、

「とんでもございません。私は一人とも人を殺すことなど出来ません」

と許しを乞いました。そこで親鸞は続けます。


「お前が人を殺せないのはお前が善人だからではない。

ただ、お前に人を殺す縁が無かったからなのだ」

“縁”というものについて、大変考えさせられるエピソードであります。


植物は土地に種を蒔けば必ず花が咲く、というものではありません。

花が咲くためには、時間以外にも、新鮮な空気と水、

そして太陽の光などの様々な「縁」が必要となります。


「人を助ける」というのも、私たちが進んで人様の良い「縁」とならせて頂きたいと願うことであります。

そして、良い「縁」となって働かせて頂こうと思うなら、

愛によって行動しなければうまく行きません。

愛がないのに、「問題を解決してやろう」「良い人間になろう」というエゴによって、

逆に相手を傷つける人がいます。


「過去は忘れなさい、マイナスをプラスに変えなさい」これらの言葉が力を発揮するのは、

愛が働いている時だけです。きれいごとでは人は助かりません。

人を助けるとは、マイナスをマイナスとして、愛を持って一緒に受けとめること。

すると、それが良い「縁」として働き、マイナスの中にあるプラスが見えてくることなのです。

お道の教えに、


『不幸せな者を見て、真にかわいそうと思う心から、わが身を忘れて人を助ける、

そのかわいそうと思う心が神心である。』とあります。


私たちが誰かのことを「何とかあの人が助かってほしい」と願う時、

その心は神様と同根であり、神様と同じ働きが生まれるということです。


私たちに人を助ける力など無いかも知れません。

しかし、その人を助けたいと願う心に神様が居られて、

人を助ける働きを現わして下さる。

良縁というのは、そこで生まれてくるのです。

さいわい

普段私たちがよく口にする「幸福」という言葉は、

学問的には「二種類の良いことの集まり」であるそうです。


「幸」と「福」、同じ「さいわい」という意味で用いられる言葉でも、

「幸」という字は、その「さいわい」の原因が、自分の力によるものではなく、

たまたま他から与えられたに過ぎないものを言います。


金持ちの家に生まれ育ったとか、ルックスに恵まれたとかいうのは、

まさに「幸」であり、「さいわい」には違いありませんが、

偶然の産物でありますから、いざというときに当てになりません。


これに対して「福」の方は、その「さいわい」の原因が、

自分自身の努力によるものを言います。

つまり、実際に苦労して苦心して勝ち得た「さいわい」を「福」と言うのです。


福という字を見れば分かる通り、示偏(しめすへん)は神様のことで、

つくりの方は「収穫を積み重ねた」ということ。


すなわち「福」とは、神様の前に積み上げられたものを意味します。

要するに信心とは、いたずらに「幸」を求めることではなく、

「福」が与えられるような生き方、

つまり、人を助ける神様の御用をさせて頂くことだと言うことなのです。


お道の教えにこのようにあります。

『神を使うて、神に使われることを知らず』


自分が神様を使うのではなく、神様に自分が使って頂く。

そこにこそ本当の「さいわい」があります。


教会で御祈念をし神様に願ったなら、

そのわが身に神様を頂いて家庭や職場に御用に行かせて頂くのです。

家庭や職場に難儀があれば、その難儀のある家庭や職場の中に入り込んで、

わが身を使って人を助ける神様の御用に立たせて頂くのです。


これまでは自分ばかりが重荷を負わされている、

面倒な事ばかりさせられる、我慢ばかりさせられる、そのように思っていた…。


これからは人を助ける神様の御用をさせて頂くと心に決めて、

自分の手足を通して、自分の生活を通して、神様の生きておられる働きをさせて頂く。

そうした生き方こそが、幸せな人生を約束してくれるのではないでしょうか。


客人の身として生きる

 江戸初期に活躍された澤庵和尚が、人間の生き方について次のように遺しておられます。

 「人間、この世にかりそめに来た客人であると思えば、この世の苦労は無くなる。

 望み通りの食事が出てきたら、良い御馳走を頂いたと思って感謝する。

 逆に望まぬような食事であっても、客人の身であると思えば、

 作ってくれた人を褒めて食べることが出来る。

 夏の暑さも、冬の寒さも、客人の身であるから辛抱することができる。

 家族、親族も同じ場所に来た相客だと思えば、

 仲良く暮らして気持ち良く別れを告げることができる」と。

 さて、何故自らを客人だと思えば、腹を立てたり、不足に思ったりせずに過ごすことが出来るのか。

 
 それは、相手に頼ろうとする心がこちらに無くなるからであります。

 お道の教えに、このようにあります。

 『人の心は移り変わりやすいものである。

 その、人を頼りにするから、腹を立てたり物事を苦にしたりすることになる。

 人に向かう心を神に向けよ。』


 頼り合うことが、本当に頼りになればそれでよいのですが、

 「頼ろう」とするということと、「頼りになる」ということは全くもって違うのです。

 信じる心(信心)とは、頼ろうとする心(依頼心)ではありません。

 信じるということは、相手にこちらの思うように動いてもらおうとするのではなく、

 むしろこちらが相手の思うように動きたいと願うことであります。


 本当の夫婦関係、本当の友人関係というものも、

 お互いに頼ろうとするのが主ではなく、こちらから相手の頼りになっていきたいと願うものです。

 そういう人間同士が一緒に生活をして、

 友人となり、夫婦となり、親子となった時に初めて、それが本当に頼りになる関係となるのです。


 自らは客人として、人を頼りにすることなく、

 神様とともに人のお役に立たせて頂けるように手を掌せましょう。

 澤庵和尚が「この世に苦労は無くなる」と言ったことは、決して大袈裟なことではありませんから。

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