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問題の糸口は自分にある

悩みとか苦しみというのは、

それに本気で向き合わないと、いつまでもそこから抜け出せない、

というところがあります。


あいつが悪い、こいつが悪いといっている間は、

自分の悩みや苦しみから、ほんの少し逃げているのです。


正面から悩みや苦しみを引き受けるのは、誰しもしんどいことですからね。


しんどいから逃げたくなる。

それで、少しでも逃げるため「あいつが悪い」と、誰かのせいにする。


誰かのせいにしておく限り、自分はその問題に正面から向かわなくていいわけですから。

たとえば、「これだけ私が、成績の悪いわが子のことを心配しているのに、

なんであの子は平気な顔をして遊んでいるのか」と思ったとしましょう。

すると人はたいてい、わが子にだけ問題があるのだと思うのです。

しかし、実はそうではない。自分にも問題があるのです。


成績ばかり気にする自分。

顔をみれば勉強勉強と言って、子どもをうんざりさせ気力をなえさせてしまう自分。

いやもっと深いところに問題は隠されていて、それを引き起こしているのは、

もしかすると自分かも知れない。


そうやって問題を自分のものにして見てみると、問題の糸口がいろいろ見えてくるのです。


それを「あいつが悪い」方式で、ただ怒ってしまうというのは、

働きもせずにお金持ちになりたいという発想に近いのですね。


先覚の教えにこのようにあります。

『自分を見ることを仕事とせよ。

それよりほかに何もすることはいらぬ』

(高橋正雄師)



自分を見ることが足りない間は、

すべて人のせいにして、不足をそこに持っていってしまいます。


ところが、自分が見えるようになるところから一大転換が起きるのです。

自分が見えることによって、相手だけが悪いと思っていたことが、

自分も相手も根本的には変わらないということに気付かされるのです。


そこから、相手の悪いところも許せるようになり、

また善いところもよく見えてくるようになるのです。

幸せに気付くこと

信心をすれば一切の苦難が無くなるかと問われれば、

残念ながらそんなことは有り得ないでしょう。

人が人として生きていく以上は、色々な苦難にどうしても直面していきます。

しかし、事実として苦難がありながらも、そのことで心が苦しまなくなる。

その苦難の中にも「幸せ」を見出せる。

別の角度から「幸せ」を見つけ、手を掌わせることができる。それが信心であります。


過去の出来事を捨て去ることはできなくても、とらえ直すことはできます。

現実を変えることが出来なくても、悩みに対する心の持ち方を変えることはできます。

境遇は変えられなくても、生き方を変えることで人生の見え方が変わるのです。


たとえば天気一つで機嫌を損ねる人もおられる。

そのような人は、雨の日には憂鬱で機嫌が悪い。

しかし、それは雨の有り難さというものに、自分の心が向かわないからであります。


雨の日には雨の日なりの有り難さを自分の心に見出すことができたならば、

雨が降ろうが陽が照ろうが関係なく、いつも心は晴れ渡るのです。


お道の教えに、このようにあります。

『お天道様のお照らしなさるのもおかげ、雨の降られるのもおかげ、

人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。

人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである。』



「○○さえあれば、私は幸せになれる」

「○○にならないと、私は幸せになれない」

と思い込んでいる人は、その幸せが得られない限り幸せになれませんし、

他の幸せになかなか気付くことが出ません。


世の中には数え切れないほどたくさんの「幸せ」があります。

自分がすでにもっている幸せもたくさんあるし、これから出逢う幸せもたくさんある。

ただ、すべての幸せを得られるわけではなく、自分にはどうしても得られない幸せというのもある。


ただ、自分にも得られる幸せがこの人生には必ず準備されていて、しかもそれは一つや二つじゃない。

数え切れないほどたくさんある。

大切なことは、私たち一人ひとりがその幸せに気付くことなのです。

苦労は引き受けるに限る

次のような言葉があります。

『チャンスがドアをノックしていても、ほとんどの人が気付かないのは、

チャンスがたいてい作業服を着ていて、骨の折れる仕事のように見えるからだ』 


これは、幾多の苦労を乗り越え、試行錯誤を繰り返し、

やがて世界の「発明王」と称されるに至った、エジソンの言葉であります。

「苦労」といえば、誰もがしているものであり、

その言葉の通り大変苦しいものだと誰もが考えていて、

しかも「自分ほど苦労している者はいない」と誰もが思っているようであります。


確かにいつの時代も世の中は生きづらい。

自分に都合のいい時などありません。

一面から言えば、人生とは苦労の連続であります。


しかし、その苦労を乗り越えずして、何を乗り越えると言うのでしょうか。

そこを乗り越えて行くところに「生き甲斐」があるのです。


生きづらい世の中だからこそ、生き甲斐というものを感じることができるのです。

もしこの世のすべてがやさしくて、

楽しい事ばかりだったら世の中は決して面白くないはずです。

生きづらい中を一生懸命に生き抜いてこそ、生きる喜びを感じることが出来るのであります。


元来「いのち」というものは苦労を避けようとするような、

そんな意気地無しではないのです。

そんな意気地無しでどうしてここまで発展し、生き延びて来ることが出来ますでしょうか。


自分のものであれ他人のものであれ、苦労を避けようとせず、自ら引き受けて行こうとする態度が肝心です。

苦労というのは、持て余しているとだんだんと重くなるばかりで、しまいには耐えきれないほどにもなりますが、

自ら進んで引き受けようとなると、その瞬間にサッと軽くなってしまうのです。


そしてそこから、限りない喜び、生き生きとした力が湧き上がってくるのです。

お道の教えに、『難はみかげ』とあります。

苦労も見方を変えれば、神様からの贈り物であります。

有難く受け取らせて頂くところに、道は開けて行くのです。

かみしめれば味がわかる

お道の教えに、このようにあります。

『信心はかつお節と同じことである。かみしめれば味がわかる。』

信心というのは、読んだり聞いたりするだけではどうしても分からないものです。

信心というものを一言で表せば、「有り難い」と思う心持ちであります。

ですから、自分の身の上に起きて来る事柄を通して、

そこで動く自分の心をしっかりと見て、

心の底から「有り難い」と手を掌わせることができたとき、

はじめて信心が分かったと言えるのです。


例えば、信心の話をするにしても、色々な心持ちで話をすることが出来るでしょう。

人からよく思われようとか、褒めてもらおうとか、金儲けの種にしようとか、

色々な心持ちで話が出来るわけですが、

私としてはそういう心持ちよりも、有り難いという心持ちだけで、お話をさせて頂きたいと思うのです。


仕事をする時にも、有り難いという心持ちだけで仕事をさせて頂きたい。

寝る時には、有り難いという心持ちの中で寝させて頂きたい。

人に対する心持ちでも、相手に対し非難する心を持つことは自分自身が大変辛いことであります。

相手のことを、有り難いという心持ちで見ることが出来たならば、

いつも良い言葉と態度で相手に向かうことが出来る筈です。  


そのように、自分がさせて頂く事柄、出逢う出来事や人々は、

その時その場合で色々でありましょうとも、

いつも自分の心の内に「有り難い」という思いがある。

それが信心なのであります。


そのような有り難い心持ちで生活を送って行くことが出来るとしたら、

それこそが私たちにとって一番の幸せなのではないでしょうか。


不足が出るところが不足が出ない。腹が立つところが腹が立たない。

わが心で自分の心の内から、有り難い心(信心)が湧き出るようになる。


そのような幸せを得るために、

神様の差し向けられた人、出来事をしっかりとかみしめて、

信心を分からせていただきましょう。

生きても死にても

六月三十日、木津教会前教会長の木津真子師が、

九十一歳という長寿のおかげを頂き、お国替えされました。


生前、

「今は思うように動けないけれども、

御霊となってからは日本中、世界中を回って人助けをする。

あんたも困ったらいつでも私を呼びなさいよ」と、

笑って手を握って下さったことを憶えております。


お道の教えに、

『生きても死にても天と地とはわが住み家』

とあります。

死んだら消えて無くなるというものではなく、

人間は生死を超えてこの天地の神様の懐に抱かれているのです。

ですからこのお道では、死も忌むべきものではなく、葬儀も凶事とはしません。

前教会長が、御霊になってもこの世で人助けをすると仰った通り、

たとえ肉体が亡くなっても魂はこの天地に在り、生き通しなのであります。


愛する人が亡くなることは、

生きている者の心情としてはこれ程つらいことはなく、これ程淋しいことはない。

このことは言うまでもありませんが、

一体、何がこれほどつらく、淋しいのかと申しますと、

『もう二度と会えない』という想いにあります。


しかし、信心の眼で見れば、

死んだからといって、どこへ行くわけでもない。

目には見えなくとも、声は聞こえなくとも、

共にこの時を生きており、まさに“ここにいる”のです。

本当に『会う』ということは、

相手が見えるかどうか、相手と話すことが出来るかどうかではなく、

共に生きるということ、ひとつとなって生きて行くということです。


かたちにおいての前教会長は死んでしまって、

もうこの世には微かな形見と思い出話しか残っていない。

しかし、前教会長の生命である信心においては、決して死んではおらず、

私たちの信心となってこれからも生きていくのであります。


ですから真のご供養とは、信心を通して、日々の生き方を通して、

自分自身の心の成長を御霊様にご覧にいれること。

それでこそ、お供えする一輪の花にも、その価値が出てくるのであります。


生きても死にても人助けをしたいと願われた前教会長の祈りを、

ともに祈らせて頂きましょう。
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