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生きても死にても

一休禅師の歌にこのようにあります。

『死にはせね どこへも行かぬ ここに居る

 たずねはするな ものはいわぬぞ』

死んだからといって、どこへ行くわけでもない。

ほら、ちゃんとここに居るではないか。

お墓に行って色々問うても、何も言わんぞ。

一休さんらしいユーモアたっぷりの歌であります。


死後の世界があるかどうか、来世があるかどうか。

それは死んだことの無い私たちには分かりません。

しかし、この肉体が滅んでも残るものがきっとあろうかと思います。

次の世代に繋がるものがきっとあろうかと思うのです。


それは私たちの日々の行いかも知れませんし、

言葉かも知れませんし、魂かも知れません。


明日が来るかと問われれば、こちらもはっきりとは断言できないでしょうが、

それでも明日があると信じているからこそ、

私たちは今日を懸命に生きていくことが出来るのです。


あるところでは、「難儀の原因は、先祖の霊が迷っているからだ」と言って、

その供養に大金を要求したりされるそうですが、

お金で解決出来ることなどに大した値打ちはない筈です。

それは生きた人間が迷っている証拠であります。


親にとっての最高の喜びは子供の成長でありましょう。

それならば、真のご供養とは、自分自身の心の成長を、

日々の生き方を通してご先祖様にご覧にいれること。

それでこそ、お供えする一輪の花にも、

その価値が出てくるのではないでしょうか。


お道の教えに、このようにあります。

『生きても死にても天と地とはわが住み家と思え』


このお道では、人間は生死を超えてこの天地(神)の懐に抱かれている、と説きます。

ですから、死も忌むべきものではなく、葬儀も凶事とはしません。


人間は必ず死にます。

どのような死に方をするかはさしたる問題ではありません。

どのような生き方をするかが問われているのです。


死んだ人に会おうと本気で思うなら、自分自身が本気で生き切ればよいのです。

天に貫き地に貫き、まっすぐな生き方、信心にならせて頂けば、

御霊様とも共に生きて行くことが出来るでしょう。

原因と結果

山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)と言えば、

幕末・明治の政治家として、

また無刀流を開いた剣術の達人として大変有名な人物であります。


鉄舟はさらに熱心な禅修行者でもありましたから、

道場においても弟子達に対し、剣の稽古だけではなく、

事あるごとに禅の教えを説きました。


ある日のこと。鉄舟が道場でいつものように禅の教えを説いていますと、

そのことを苦々しく思っていた若い一人の門弟が得意気に声を上げます。

「先生、今朝、私は家からこの道場へ通う途中で神社の鳥居に小便をかけましたが、

 この通り何の罰も受けておりません。神仏など迷信です。」

それに対し鉄舟は、間髪を入れず、

「この罰当たりめが!」

と大声で叱りつけました。


その門弟はびっくりしたものの、

「先生、どこに罰が当たっているのですか?」

となおも逆らいます。 

すると、鉄舟は静かに答えました。

「分からないのなら教えてやろう。

 いいか、神社やお寺の前を通るとき、きちんと礼拝できるのが、

 人間の教養というものだ。

 鳥居に放尿するなど、犬猫のする行為だ。

 お前は一人前の人間であり、しかも武士ではないか。

 武士たるものが、人間のすることさえできず、

 犬猫の仕業しかできないのが、どうして罰が当っていないと言えようか」


さて、原因と結果と言いますと、善い行いをすれば将来善い結果が生まれ、

悪い行いをすれば将来悪い結果が生まれるというのが通例ですが、

本当は、原因を作った時に結果も共に生まれているのです。


お道の教えに、このようにあります。

『真にありがたしと思う心、すぐにみかげ(恩恵)のはじめなり』

有難い心があるから将来助かるというのではない。

有難いという心になった、それがそのまま最善最高の生活で、

そこから後はそれが続いていきさえすればよいのであって、

それ以上の生活はないという教えであろうかと思います。


有難い心で神仏に手を合わせることができる、

人に優しく接し、物を大切に扱うことが出来る。

有難い心で善い行いができることそれ自体が、

喜ぶべき結果であることを忘れてはなりません。

天で頭を打たないように

お道の教えにこのようにあります。

『人間は、財産ができたり、先生と言われるようになると、

 頭を下げることを忘れる。信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。

 とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、

 天で頭を打つのが一番恐ろしい。

 天は高いから頭を打つことはないと思うであろうが、

 油断をするな、慢心が出るとおかげを取りはずす。』


自信を持つことは大切なことですが、自信と慢心とは常に紙一重であります。

人間の性(さが)とは悲しいもので、

金を持たない者が多少の金を持つようになると、金を持たぬ者を見下す心持ちになる。

大きな会社に勤めれば、小さな店を侮って見るようになる。

役職に就けば、今まで同輩であった者に対して、尊大な態度で接するようになる。

人間の自己顕示欲が、競争社会の中で勝ち得た優越感から、

醜い相として現れるのです。


しかし、考えてもみて下さい。いくらお金を稼げるようになったからと言って、

また、いくら人としての生き方が分かったからと言ったところで、

自分の思いや行いが百パーセント間違い無いなんてことは有り得ません。

気を抜けば、怠け心が起こる。傲慢になる。人を見下したりもする。

そうなってしまう自分の弱さを自覚することが大切です。


天で頭を打つとは、そのような傲慢さを許さない、

この天地を貫く道理、働きを忘れるな、という御教えであります。


自分の幸せや成功があるのは決して自分の力からではありません。

もともと何の力も無い自分が、この天地に生かされて、

人の助けも頂いて、今たまたま自分の力を発揮出来る役割を与えて頂いているのです。

自分の力でここまで来た、などと思うのは途方もない勘違いであり、

慢心なのであります。


自分の気付かぬところで、どれだけの人の世話になっているか。

一人ひとりに会って直接御礼をすることが出来ない為に、

神様を通して御礼をさせて頂くのであります。

ああ、そうか

白隠禅師に、このような逸話があります。

ある檀家の娘が妊娠をしたのですが、

娘の父親が一体誰の子かと問い詰めましたところ、

娘は頑として男の名前を口にしません。

怒った父親がなおも激しく問い詰めたところ、

娘は恐れのあまり、咄嗟に「白隠禅師です」と嘘をついてしまうのです。


父親が日ごろから敬愛している白隠の子であれば、

きっと許してくれるだろうという娘の浅知恵でした。


しかし、娘の父親は白隠のところに駆けこむや、

「この生グサ坊主!お前の子だ、受けとれ」と怒鳴りながら、

赤ん坊を突き出しました。


もちろん白隠は、身に覚えのないことです。

ところが何の言い訳もせず、「ああ、そうか」と赤子を受けとりました。


この出来事により、白隠の名声は地に堕ち、

近所の大人たちから罵倒され、子供たちからは石を投げつけられ、

大勢の弟子たちが去って行きました、


それにもかかわらず悠然ともらい乳をして歩き、

赤子を親身になって育てる白隠の姿に、

娘もこらえきれなくなり、ついに父親に本当のことを白状しました。

驚いた父親は、すぐに白隠に非礼を詫び、

赤子を返してほしいと恐るおそる申し出ました。


すると、白隠は怒ることなく、「ああ、そうか」とだけ言い、赤子を返したそうです。

このことがあってから、以前にも増して信者や弟子が

白隠のもとに集まってきたそうであります。


さて、お道の教えに

『人間は、生まれるときに証文を書いてきているようなものである』

とあります。


自分の人生で起こる出来事は、

自分の魂が書いたシナリオ通りだと信じることができた瞬間から、

この人生はものすごく楽になります。


白隠禅師がなぜ、すべての出来事に対し、

不足も言わず、執着もせず、

「ああ、そうか」と受け入れられたのか。

それば、「お前が父親だ」と言われたその時に、

それもまた自分の人生のシナリオ通りであると、

悟られたからではないでしょうか。


私たちの身に起こる様々な事も、すべてシナリオ通りなのです。

そう、最高・最良・最善・最適の選択をして、

今、ここにいるのです。

過ちからはしごを作る

ジェームズ・アレンの言葉にこのようにあります。

人間は自分の犯した過ちから、

はしごを作ることが出来る。

ひとつひとつの恥ずべき行動を、

ひとつひとつ横木にして、

上っていくかぎり…。


人間というのは、どこまでいっても未完成、不完全なもの。

生きていれば必ず過ちを犯すものなのかも知れません。

しかし、この人生で犯した過ちというのは、必ず自分自身に返ってくる。


「人に知られなければ大丈夫」と考えるかも知れませんが、

他に知れる、知れぬの問題ではありません。

知られるか、知られないかは、隠しさえすればごまかせるかも知れない。


しかし、誰に知られなくとも、自分の生命の芯に狂いが生じたらどうにもならないのです。

財力があっても名声があっても、生命それ自身が狂ってしまったら、どうすることも出来ません。

横道をいくら必死に走ったところで、それらは皆必ず行き詰まるようになっているのです。


その行き詰まりは大変苦しいものでありますが、

実はそこが有り難いのでありまして、

行き詰まるからこそ引き返す気にもなるし、神様を信じることも出来るのです。


信心をさせていただくということは、この天地の神様に

恥じない生き方をさせていただこうと心に誓うことであります。

どんな時も、「神様が見ておられる」とわが心に問うことなのであります。


お道の教えには、このようにあります。

『おかげを受けられるか受けられないかは、わが心にある。

 わが心さえ改めれば、いくらでもおかげは受けられる。』


本気で自分の運命を開き、今の環境を改善したいと本気で願うのであれば、

唯一自分自身で変えられるもの―自らの心―を改めなければなりません。


自分の心が自分の運命を決め、人生を形づくっていく。

このことを忘れてはなりません。
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