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天国の門

白隠(はくいん)禅師は、臨済宗中興の祖と仰がれ、

後に五百年に一人の名僧とまでいわれた方であります。


ある日、その白隠禅師のところにたいへん立派な武将が訪ねてきて、このように問いました。

「白隠殿、天国と地獄は本当にあるのでしょうかな? またあるとしたら、どこにあるのか教えては下さらぬか?」

すると白隠禅師は、いきなり大笑いしはじめ、その武将に対して、

「身なりだけは立派なようじゃが、そんなこともわからんとは、本当にまぬけな侍じゃのう!」

と罵声を浴びせたのです。

それを聞いた武将は、顔を真っ赤にして激怒しました。

「この無礼者めが! 叩き切ってくれるわ!」

そう怒鳴るなり、刀を抜いて白隠に振りかざします。


白隠はそこで間髪入れず言いました。

「それが地獄じゃ! 地獄の門が開かれたぞ!」


はっと気がついた武将は、深く恥じ入り、

「なるほど、そういうことですか。地獄とは己自身の心が創り出すもの。

 ものの本質を見ようとせずに、ただ己の心の状態に振り回されていることなのですな。

 いや、これはありがたい…」


と言って、深々と頭を下げたということです。

そこで白隠禅師は、にこりと笑ってこう言います。

「ほれほれ、天国の門が開かれましたぞ」


 
 お道の教えにこのようにあります。

『用心せよ。わが心の鬼がわが身を責めるぞ』

心の鬼とは怒りや傲慢さといった「我」(エゴ)であります。

そしてその我に心が支配されている限り、人生には大変険しい道が待ち受けています。


信心とは、自分の心を神様に向けることです。

心が神様に向かうことで人は幸せを得る。

悲しみや失望から本当の意味で自由になれるのです。


感謝する心や謙虚さというのは、まさに

自分の心が神様の方向に向いているかどうかの恰好の試金石となります。

優しくおだやかで、人を思いやり、人のわがままに寛容でいるでしょうか。


神様へと向かう天国の門が開かれているかがそれで分かるのです。

祈りを込めて聞く

「話すこと」と「聞くこと」とは、まるで違うことのように思われるのですが、

まことに通じるところがあります。


赤ん坊は生まれてすぐに話すことは出来ません。

声をあげて泣いてはおりますが、何を言っているのかは分からない。

母親だけは不思議とそれが何を言おうとしているのか分かるようですが、

それでも赤ん坊が話しているとは言えないでしょう。

それがいつの間にやら、皆にも分かることを話すようになる。


なぜ話せるようになるのかと言えば、それは周囲の人の話をしっかりと聞いているからなのです。

人の話を聞いて、だんだんと分かるようになり、

それで、皆にも分かることを言うようになる。聞くことなくして、話すことなど出来はしません。


耳の聞こえない方であっても、手や唇で話される。

それも同じことであって、耳で聞く代わりに目や体の一部から、

この天地自然、人の心を受け取っているのです。

その受け取るということがなければ、

自分の思いを表現でもって人に伝えることなど出来はしません。


ですから人が話をする時には、日頃から心を込めて聞いて、

相手の心を受け取っていなければなりません。

ただぼんやりと耳を向けている、心を込めて聞いていないようであっては、

自分が話すことも自分勝手でとりとめのない話しか出来ず、

その結果、誰も自分の話を聞いてくれないようになる。

これは当然のことなのです。


このお道は、「話を聞いて助かる道」と言います。

聞くという行為の中に徳が備わっていて、そこに神様がお働き下さるのです。


愚痴や不足を聞くのは誰でも嫌なことでしょうが、

その時こそ相手の本音が出ているわけですから、身を入れて本気で聞かせて頂き、

その場限りで解消してしまいさえすれば、「愚痴」と名をつけるまでもなく、

それは有り難い「打ち明け話」となるのです。 


聞き手が「うるさい、くだらない、聞きたくもない」とはねつけた瞬間に

その話には「愚痴」という名がつくのです。


聞くことに、どれだけ心を込めて聞くか。

祈りを込めて聞くか。

ここが肝心であります。

川の流れのように

『老子』の中に『上善は水の如し』という言葉があります。

上善とは「最も理想的な生き方」という意味であり、

そういう生き方をしたいと願うならば、水のあり方に学びさない、

という教えであります。


川を流れる水を想像してみて下さい。途中の岩や木の根にぶつかりながらも、

さらさらと流れていく。

水というものは、その時々の環境に応じて自由自在に動いていくところにこそ、その本質があるのです。


人間の生き方も、何事にもとらわれることなく、

どこどこまでもさらさらと生きていけるようになった時にこそ、

本当に「助かった」、「救われた」と言えるのでありまして、

それが私たちが求めてやまぬ生き方なのではないでしょうか。


ところが、そのようにさらさらと生きることを邪魔するものが、私たちの心の中にある。

それを「我」と言い、また「執着」と言います。


「我」も「執着」も、一つの事にこびりついて動かぬ心のあり方を言うものです。

川の流れで言いますと、一カ所にせかれて停滞しているのが迷いや心配している様子、

そこから流れが激しくなっているのが腹を立てている様子です。


なぜ流れが停滞したり激しくなったりするかと言いますと、

それは「我」なり「執着」なりというものが川底にこびりついて、水の流れを邪魔しているためです。


お道の教えとは、どんなことにもとらわれず、

凝らず、迷わず、しっかりとした生き方をしていくことを心に決めるものであります。


他人を見る見方においても、あの人はこういう人間だ、と決めつけてしまうところから、

その相手のことをあれこれと悩まなければならないようになる。


それがもっと自由な見方が出来るようになると、相手を決めつけることなく、

その人が何かした場合にも、それにはどういう事情があったのだろう、何か訳があるに違いない、

と察することが出来るようになり、責める心がおさまってくるのです。


「我」や「執着」を離れていくことで、山を流れる川の水のように、

さらさらとした生き方が出来るようになるのです。

許す心

お道の教えにこのようにあります。

『神様は叱ってはくださっても、罰はお当てなさらない。』

悪いことをすれば天罰が下ると言いますが、

悪いことをした人間に罰を当てよう、罪を償わせようとするのは人間であります。


神様は人間の親であります。

自分のことなど忘れ、助けずには居られないのが親心というものですが、

同じ親でも、神様は人間の親よりも遥かに気が長く、心が広い。

責めるところが一切無い為に、ものを言われることもないのです。


どこまでも助けてやろう、どこまでも救ってやろう。

よしお前がどんなに悪い者であろうとも、どんなにつまらぬ者であろうとも、助けずには居られぬ。

悪ければ悪いだけ、つまらないならつまらないだけ、なお助けずには居られない。


信心とは、神様が自分を愛し、許して下さる親であることを知ること。

神様がいつも自分に寄り添って、この人生を共に生きて下さっていることに気付くことなのです。


そして、そのような罰をお当てにならない神様から、

私たちは「許す心」を学び、頂くことが大切なのです。

人間というのは、どこまでも許されないと助からない。

少しでも責められることがあっては助からない。そういう生き物であります。


小さい子供が育って行くのは親が許してくれるからであり、

私たちもそれでここまで育って来たのです。

仮に子供が何か失敗をしたとしても、その失敗には何か訳があるのだろうと、

親は子供の立場に立って解釈してくれる。その優しさが子供を育てる、落ち着かせるのです。


しかし、そのような許す心を他人に対して持つのは、何と難しいことでしょう…。

他人を責め、押しのけ、恨み、憎む。そんな我が子の姿など、親は見たいなどと思わないでしょう。


相手を許し、助けようとする。そんな大人に育ってもらいたい。

だからこそ、神様はその見本として、決して人を責めず、罰をお当てにならないのです。
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