FC2ブログ

わが心をまつれ

誰かが腹立ちや憎しみを自分の前に持って来た時、

こちらに信心がない間は、こちらにも腹立ちや憎しみの心が起こってまいります。


しかし、こちらに信心があれば、

相手から腹立ちや憎しみを仕向けられても、

それを解かして、さらにはこちらの信心を相手に及ぼし、

信心にならせるだけの働きをすることが出来るようになります。


誰かが心配すれば、こちらも心配をするように、

人の心というのは伝染するものです。

心配したり、腹が立つのが伝染するだけではなく、有り難い心(信心)も伝染します。


相手の心配や腹立ちがこちらに伝わるよりも強く、

こちらの有り難い心が相手に伝われば、相手の方から変わっていくのです。


真の信心生活者(信者)というのは、

信心が自分の生活となってそのような働きをするようになって来ることであります。


お道の教えに、このようにあります。

『三年五年の信心では、まだ迷いやすい。

 十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。』


不足が出るところが不足が出ない。腹が立つところが腹が立たない。

わが心で自分の心の内から、有り難い心(信心)が湧き出るようになる。


付焼刃の信心ではない。信心の話を聞いた時だけ、

その心になったというのではない。

自分自身が信心になりきる、それには十年かかると御教え下さっているのです。


火は自身が暖かいばかりでなく、周囲のものも暖かくします。

自身が明るいとともに、周囲のものまで明るくするのです。

信心する者も同様に、自身が有り難いばかりではなく、周囲の人をも有り難い心にならせることが出来る。


有難い心があるから将来助かるというのではなく、

有難いという心になった、それがそのまま信心であり、最善最高の生活なのです。


「われながら喜んで、わが心をまつれ」とは、

そのような有り難い心にならせて頂いた、

その自分の心を神様にお供えし、日々、御礼を申していくこと。


有り難い心になるだけの力はすべて、

もともと我が内に与えられていることを忘れてはなりません。

一心

八木重吉(やぎ じゅうきち)は、昭和二年に二十九歳の若さで亡くなった

敬虔なクリスチャンの詩人であります。

信仰と詩の合一を目指し、短くもひたむきに生き抜いた彼の作品は、

彼の死後二十年以上経って世間から注目され、今なお多くの人の心に光を与え続けています。


そんな彼の作品の中に「花」という詩があります。

花はなぜ
美しいか
ひとすじの気持ちで
咲いているからだ

彼にとって花が美しいのは、形や色などの見た目にあるのではなく、

「ひとすじの気持ちで咲く」ところにあるのです。

自分を美しく見せようとか、人に褒められようとか、

そんな余計なことを考えずに、ただ「花だから咲く」、

そのひとすじの気持ちが私たちを感動させるのだと。

人間もまたしかりであります。


お道の教えにこのようにあります。

『これまで、神がものを言って聞かせることはあるまい。

 どこへ参っても、こちらから願うばかりであろう。

 それでも一心を立てれば、わが心に神がおられるからおかげになる。

 生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことはない。…祈るところは、神と一心である』


自分を生かし自然を生かし、この天地全体を生かしている大いなる働きがあります。

一心とは、一つの心と書く通り、その働きと一つになるということ。

我欲を張らず、物事に執着せず、ただひとすじに神に心を向けるということであります。

花は誰のために咲くのか。誰のためでもありません。

花は、ただ花であるがゆえに咲くのです。

自分に与えられたいのちを、与えられた環境の中で、与えられた役割を精一杯、

ただひとすじに果たして、次の世代にいのちをつないでいくのです。


私たち人間もまた、自らに与えられたいのちを全うする役割が与えられているのです。

この自分の中から、どれほどのものが現れ出るか。

そこに一心を立て、ただひとすじに咲こうとするところに美しさが生まれるのです。

後ろ祈念

このお道の信心には「後ろ祈念」という言葉があります。

その名の通り、誰かの背中を祈らせて頂くこと。

学校へ行く我が子、会社へ行く夫の後ろ姿に合掌し、

お礼を申して無事を願うということであります。


合掌と言えば両手を合わせて頭を下げる。

形の上ではただそれだけのことでありますが、

単に社交で頭を下げる低頭や、手を握り合う握手とは違い、

相手の地位や身分を尊敬するのではありません。


そこに神様を拝む心、有り難いと感じる心があってはじめて合掌となる。

人の背中に合掌するということも、相手の中におられる神様を拝むことに他なりません。


「どうぞ、あなたの中の神様がお働き下さり、今日一日、幸せに過ごせますように」

と念じて、両手を合わせる。

それが合掌するということなのです。


そのようにして、人の背中に手を合わせることが出来るようになると、

だんだんと自分自身も有り難い心持ちになってまいります。


何が有り難いかと言いますと、自分も又同じように誰かに祈られてここまで来たのだ、

ということが分かってくる。

その祈りの中で「生かされて生きている」ことが実感出来るようになる。

そのことが大変有り難いのです。


お道の教えにこのようにあります。

『神に会おうと思えば、庭の外へ出て見よ。空が神、下が神。』

「神様を信じよ」と言われても信じるのは大変難しいことでしょう。

なぜ信じられないかと言えば、目には見えないものだからです。

目に見えないものは、

いくら人から説明されてもやはり見えないものですから、疑えばキリがありません。


しかし、この世の実際は、目に見えないものが、

目に見えるものを支えています。

美しく咲く花も、目には見えない地の下の根が咲かせているのです。


たとえ目には見えなくとも、私たちを助け、手を引いてくれる存在というのは、

実は私たちの周囲にたくさん在るのではないでしょうか。


祈りの中で生かさせて生きている。

私たちはその祈りに気付いていないだけなのです。

信心のおかげ

お道の教えに、このようにあります。

『心配は体に毒、神様にご無礼である。

心配する心を神様に預けて、信心する心になるがよい。』


何故人間が心配する心になるかと申しますと、

それは、そもそも無いものを土台にあれこれ考えるからであります。


天気でも、明日は晴れるか、晴れないかといくら心配してみたところで、

実際には明日になってみないと分からない。

まだ明日になっていないのですから、無いものを土台にしているのです。


無いものを土台にしてあれやこれやと考えることが心配であるのに対し、

現在(いま)手元に有るものへのお礼を土台とすることを信心と言います。


受験するときでも、合格か不合格かと言って、

無いものを土台にして色々考える。

そこで心配ばかりして心や体を壊してしまっては元も子もありません。


そうではなく、

「これまで多くの人に御世話になって勉強することが出来、健康のおかげを頂いて、

今日こうして、無事に試験を受けさせて頂きます。ありがとうございます。

どうぞ実力を発揮し、合格できますように」とお願いさせて頂くのです。


信心とは別に難しいものではありません。

朝、目が覚めたら、今日も生命を頂いたことにお礼を申し、

布団にお礼申し、洋服に「お世話になります」とお願いする。

食事は食材を与えて下さった神様と食品の加工や調理に関わったすべての方々にお礼を申し、

食器に「お世話になりました」とお礼を申しながら洗わせて頂く…。

そのようにして、お礼を土台に一日を過ごしていくのです。


もちろん布団も洋服も食器も返事はしません。

しかし、物を通して神様にお礼を申すのです。


人目があるからするのではない。

人に向かってするのでもない。

神様に向かってさせて頂く。 


そういう生き方を進めてまいりますと、

心配が減って有難いものがだんだんと増えてまいります。


今まではさほど有難いと思わなかったものも、有難いと思えるようになり、

今まではさほど有難さを認めなかったものにも有難さを認め、

そのものの尊さを自分が受け取ろうとするようになる。

それが、信心のおかげ(御利益)と言うものです。
ランキングに参加しております!
いつもクリック頂き、        誠にありがとうございます。   アヒルちゃんとネコちゃんを     1日1回ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking 人気ブログランキングへ

お越し頂きありがとうございます!
ご連絡はこちらよりどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
最新記事
カテゴリ
FC2カウンター