FC2ブログ

心の病とは

徳川将軍家の兵法指南役であった

柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の言葉にこのようにあります。

『病とは、心の病なり。心の病とは、心のそこそこにとどまるを云うなり』

心をとどめるというのは、執着するということですね。

その執着こそが心の病なのだと。


天下無双と言われた剣豪も、

執着からいかに離れるかということを問題にしたわけでありますが、

人間関係における執着での最たるものが、「許せない」という想いであります。


「許せない」という想いとは、過去に自分が傷つけられた出来事に執着して、

誰かを責め続けている心の状態を言います。

責め続けることで心が晴れるならばそれも良いですが、

逆に心は苦しくなっていくのです。

そもそも他人を悪く思うこと自体、

自分自身の心が乱れ、傷つくことであり、

相手との間柄もさらに悪くなっていく。

まさに損をすることばかりなのです。


お道の教えにこのようにあります。

『我を出すな。わが計らいを去って神任せにせよ。

天地の心になっておかげを受けよ』


「許す」というのは、相手がした行為を肯定することでもなければ、

自分の心を押し殺して我慢することでもありません。

ただ、その事柄への執着から離れるのです。


相手が自分を傷つけたのは、相手が人間的に未熟であったが故のこと。

確かに悪いと言えば悪いことでしょう。

しかし、悪いものを悪く思うだけでは、自分の心がますます苦しくなっていくばかりです。

ですから、そのような苦しい想いは神様に預けてお任せしましょう。


そして自分自身の心は、この大空のように広く晴れ渡り、

この大地のようにすべてを受け入れられる心にならせて下さい、と祈りましょう。


そのようにして執着を放していくことが出来たならば、

この人生は、もっと生きやすく、もっと楽しくなるはずです。

合わせ鏡

お道の教えに、このようにあります。

『天地の神のおかげで生かしてもらっている者は、
 
 合わせ鏡の間に置いてもらっているようなものである。

 悪いことも善いことも、みな鏡に現れるように神様はご承知である。

 信心して、真の心にならなければならない。』


合わせ鏡に映るのは自分自身であります。

つまり、自分の心が人生に現れる。

言い替えれば、人生で起きていることを見れば、

自分自身の心も知ることが出来るという教えであります。


鏡に映った自分を変えようとして、いくら鏡に手を伸ばしたところで、

そこには実体がありませんね。

鏡に映る自分自分を変えてはじめて、鏡に映る光景、つまり人生が変わっていくのであります。


よく、「これだけ信心しているのに、相手は少しも良くなってくれない。

少しも変わってくれない」という言葉を耳にします。

そのお気持ちはお察ししますが、

そのように嘆くだけでは助かりの道は開かれません。


その相手の中にある善なり悪なりというのも、

実は自分自身の心がそこに現れているのです。

自分の心を見せられていることに気付いてはじめて、

相手だけが悪いと思っていたことが、

自分も相手も根本的には変わらないということが分かってくる。


そこから、相手の悪いところも許せるようになり、

また善いところもよく見えてくるようになるのです。


また、相手が悪いところを出してきても、

それが我が内にもあることを知っているので、

簡単には責められなくなる、蔑めなくなる。


その心持ち、

「人に偉そうに言えるような私でありません」

と本気で思えた心持ちになってはじめて、

それが相手の心に響いて、関係が変わってくるのです。


相手が善くなってくれることを、

こちらが何十年待ったところで、どうなることやら分かりません。

それよりも、こちらが相手を悪く思ったり、

辛く思ったりしないようになれればそれでよい。

鏡に映る自分の心が変われればそれでよいのです。

そしてその心を美しく磨いていくことで、

この人生もより美しいものとなっていくのです。

理解と共感

離婚訴訟中のある芸能人の男性が、

女性に対して学んだことは「理解と共感が大切」だとテレビで語っておられました。

この方だけでなく、中年になって、

あるいは老年近くなって夫婦間の危機を感じ、

改めて「理解」や「共感」の大切さを痛感する人は多いものです。


というのも、結婚してしばらくは、早くローンを返さねばならないとか、

子供を大学に入れるまでとか、夫婦が何かしら共有の目標をもっているので、

お互いが相当に協力出来るものであります。


協力し合っているときは、相手のことなど深くは考えず、

ともかく目標に向かって前進するものです。

そのとき、自分が喜んでいるときに相手の方は

それを支える苦労でたとえ辛い思いをしていたとしてもなかなか気が付きません。


ところが、目標を達成してしまって、やれやれと思って二人が向き合ってみると、

お互いのことを本当に知らないままで来たことに思い当たるのです。 


今まで仲良くやっていた夫婦が中年になって、

急にギクシャクし出したり、離婚などということまで出て来そうになるのは、

協力から理解へと至る谷間にさしかかっているときなのです。


協力関係を「理解」と取り違える人は、

どうして相手が急に分からず屋になったのかと思ったり、

今までの協力が偽物だったのかと思ったりするでしょうが、決してそうではありません。


相手を「理解」するというのは大変難しいことなのです。

お道の教えに『信心は家内に不和の無きが元なり』とあります。


結婚するまでは別々の生活環境の中で育ち、

別々の性格や感情を持った者が、途中から夫婦生活を始めるわけですから、

夫婦というのはそもそも「一心同体」などではない。平和が当たり前ではない。

あるのは不和であって、放っておいても何とかなるような

甘いものではないと心得ることが肝心なのです。


しかしながら、私たちが幸せになるためには家庭の平和が必要ですから、

信心させて頂いて、「どうぞ相手を理解させて頂ける身の上にならせて下さい」と日々手を掌わせ、

祈りながら生活を進めていく。

その心と姿勢が、家庭円満の秘訣となるのです。 

一年一年ありがたく

茶道を大成した千利休(せんのりきゅう)の歌に、このようにあります。

「稽古とは 一より習い 十を知り 十よりかえる もとのその一」

一、二、三…と習い、十まで知ったならば一に戻って、

再びもとの一を習う時、習う人の心は全く変わっているものです。


端から見ればもとの一は同じように見えますが、

習っている本人にとってみれば、最初に習った時と異なっている。


このことが人の進歩につながるのであって、

十を知り、もとの一に戻らぬ人は、それ以上の進歩は望めません。


さて、元日とは暦の上での「一」であります。

新たな一年を迎えた感動の中で、「今年こそは」という願いを立て、

感謝と反省の胸に神仏に手を掌わせる。


そして、今日という一日を出来る限り大切に過ごそうとする。

そのような「元日の心」を毎日続けさせて頂くことが、そのまま信心となります。


ですから、元日の今日。この感謝の心持ちを、

しっかりと味わい、保っていき、そうしてどのようなことに出遭っても

自分から離れないように心掛けることが大切です。


信仰上の修行というのも、もともとはそのためにあるのです。

木魚を叩いて念仏を唱えたり、断食をしたり、山に登ったり、川を渡ったり。

それらはすべて、その間に感じる、何とも言えぬ有り難い心を自らに覚え込ませ、

自らがそのように成り切るために、させて頂くことであります。


このお道では、体を痛めつけたり我慢したりする修行はありません。

その代わりに、「元日の心」を持ち続けることを修行とさせて頂きます。


あらためて一を習うと、その一が、きわめて新鮮になり、また違った経験が得られる。

そこから次に向けての工夫が生まれるのです。


『信心は、一年一年ありがとうなってくるのでなければ本当ではない。』

日々させていただく信心生活が、

一日一日、一年一年、有り難いという想いが増えていっているか、そうでないか。

ここのところを、信心の標準とさせていただきましょう。

ランキングに参加しております!
いつもクリック頂き、        誠にありがとうございます。   アヒルちゃんとネコちゃんを     1日1回ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking 人気ブログランキングへ

お越し頂きありがとうございます!
ご連絡はこちらよりどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
最新記事
カテゴリ
FC2カウンター