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不運を幸せに変えて

相田みつをさんの詩に、「いのちの根」というものがあります。

なみだをこらえて
かなしみにたえるとき

ぐちをいわずに
くるしみにたえるとき

いいわけをしないで
だまって批判にたえるとき

いかりをおさえて
じっと屈辱にたえるとき

あなたの眼のいろがふかくなり

いのちの根がふかくなる


生身で生きているのですから、痛い辛いがあるのが人生であります。

その苦難は、いくら言葉を飾ったところで、不運な事には違いない。

しかし、ただメソメソしているだけでは、辛い思いをした甲斐が無いじゃありませんか。


不運と不幸とは同じものではありません。

不運というものは、受け止め方によって幸にも不幸にも成り得るのです。


お前には必要だから、と神様がわざわざ辛い道をお与えになっているのです。

その苦難の中にある恩寵をしっかりと受け取らせて頂きましょう。


病気なら病気のままに、そのことを自分の務める役割として、最高の演者となってみる。

そこで自分の生き方を見つけて行く。

病気になったおかげで、健康のときにはわからなかった人生の別の価値がわかり、

他の病苦が察せられるところから、本当の意味で病人を慰めることができる。

そこから、自分の病気のことだけでなく、

人さまの病気も治りますようにと願える自分にならせて頂けたならば、

それこそが神様の願いなのです。


病気を通して神様の御心をわが心に頂けたのならば、

失ったものより遥かに大きなものを手にしたことになる。


苦難や絶望が、神様の願いに気付かせて頂いて真の生き方に目覚める尊い縁ともなるのです。

そこではじめて不運は幸せとなる。

いのちの根が深くなり、よりしっかりとした人生を送ることが出来るのです。

御霊祭

お道の教えにこのようにあります。

『死ぬということは、もみを臼(うす)でひいた時、

 殻と実とが分かれるようなものであり、時が来れば魂と体とが分かれるのである。』

人は誰でも例外無く必ず死ぬ。これほど確実なことはないですが、

いつその時が訪れるのかは知る由もありません。

ただ言えることは、人が死ぬということは、その人として

一度は必ず出逢わなければならないことに出逢われたということであります。


『殻と実とが分かれるように、時が来れば魂と体とが分かれる』というのは、

死は人生の最後に来るのではなく、最初から時々刻々、常に生と離れずに付きまとっているということです。


私たちは日々生きていると思っており、それは確かなことでしょうが、

実は今日一日生きたということは、今日一日死んだということに他なりません。

生命は一刻一刻死んでいるのであって、それがすなわち生きているということなのです。

ですから、死の問題というものが生きることと別にあるわけではなく、

実はそれは生の問題であって、本当によい生き方が出来れば、それが同時によい死に方にもなっているのです。


世間でよく言われる、亡くなった人が「浮かんでいない」というのは、

その者が死に切れておらず、また生き切れてもいないためにその場にとどまっているのでありまして、

死ぬのも生きるのも同じことですから、本当に生きれば、本当に死ねるということになる。


そこで、生きている私たちが亡くなられた人に本気で会おうと思えば、

自分自身が本当に生き切ればよいのあって、それが御霊様とひとつになる唯一の道であります。


御霊祭をするのでも、その祭りによって

本当に御霊様とひとつになるということでなければ、祭りになりません。

喧嘩をしたり、不平不足を言っていてはお祭りにならず、弔いにもならない。ましてや会えるはずがない。

自分自身の心の成長を御霊様にご覧にいれること。

それでこそ、お供えする一輪の花にも、その価値が出てくるのです。

日に日に生きるが信心なり

先月二歳にならせていただいた娘は、

大祭の前夜には必ずと言ってよいほど体調を崩します。


春の大祭の際にも、深夜から熱を出し始め、1~2時間後には39度まで上がりました。

滅多に風邪を引かない娘が毎回、大祭の前夜に熱を出すとはどういう事か。

偶然の出来事で片づけてしまっては神様に相済まないような思いがしまして、

ここに書かせて頂いている次第であります。


娘との出逢いを振り返ってみますと、娘を初めて目にしたのは病院の診察室でありました。

レントゲン写真に映る平べったい物体を病院の先生が指さし、

妊娠はしているが心音が聞こえない。形もいびつであるから、このまま成長することは難しいだろう、と。


結婚してから三年以上心待ちにしていた、わが子との感動の初対面は、

妻がその場で倒れ込んでしまうほど、私たち夫婦にとっては深刻な出来事でありました。

すぐに病院から教会に電話でお届けをし、

教会に戻った後、夫婦で長時間、御祈念をさせて頂きました。


そしてその日から毎晩、御神酒を妻のお腹に塗りながら、

「今日一日、命を頂きありがとうございます」と御礼させて頂くことが、私たち夫婦の日課となったのです。


そんな娘が命を頂き、ここまで成長させて頂き、健康な体を頂いてきた。

大切な祭の前夜に限って娘が体調を崩すのは、その有り難さを忘れぬように、

と御教え下さっているのではないか。そのように頂いております。


お道の教えに、『日に日に生きるが信心なり。』とあります。

一日一日、日は経つ。夜が明けて日が暮れる。

毎日が同じことの繰り返しのように思われるのですが、決して同じではない。

この「同じではない」ということが大切なところであります。


一日一日、その時その時が新たなのだ。決して当たり前ではない今この時を、

神様の広大なおかげの中で、目に見えぬ御霊様のお働きの中で、生かされて生きている私たちなのだ。

その思いが抜け落ちてしまっては台無しなのであります。

タライの水の教え

タライに入った水を、向こうへ押しやると、

タライの縁に沿って左右からこちらへ返ってきますよね。

循環の法則とも言います。


私たちが暮らしているこの世の中は、「自分が出したものが自分に返ってくる」という法則が働いています。

だから、良い思い、良い言葉、良い行いを相手に投げかければ、それは自分に返ってくるのです。


山に向かって「大好きだよ」と叫んでみてください。

どういう言葉が返ってきますか? 

「大好きだよ」とコダマになって返ってくるでしょう。

すぐに返ってくるのもあれば、時間差をおいていくつも返ってくるときもあります。

だから、一度こうした経験をした人はやみつきになります。出せば出すほど何倍にもなって返ってくるからです。


 「人は口にした言葉と出会う」といいます。

人は自分の発した言葉通りのことと人生で出逢うようになっているということです。

だから、口へんにプラスと書いて、叶うという漢字になります。

プラスの言葉をいつも口にすることによって、それはやがて現実のこととなります。


人間の体って意味を持っているのですね。

たとえば顔は前についています。後ろについていたら歩くのに不便ですよね。

だから生きるのも、前向きに生きると幸せな成功を得られるようにできているのです。


ついでですが、目は二つあるから、良いことも悪いことも見えます。

耳は二つあるから、良いことも悪いことも聞こえます。

手は二つあるから良いことも悪いことも掴めます。

足も二つあるから良い方にも悪いほうにも進めます。

それは、良いことも悪いことも経験することが魂の学びになるからです。


では、口はどうでしょう? 一つしかありませんね。

それはどんな場合においても、言葉は良いことだけを出さなければいけないからです。

要するに、自分がもらって嬉しい言葉や行いを、まずあなたから出すことです。

そうすればあなたには毎日のように、喜びと感激と感動が巡り巡ってくるでしょう。

でも、最後に一言、悪いものを出しても同じように返ってきますから、気を付けてくださいね。
 
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