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あとからくる者のために

坂村真民先生の詩にこのようにあります。

あとからくる者のために
苦労をするのだ
我慢をするのだ
田を耕し
種を用意しておくのだ

あとからくる者のために
しんみんよお前は
詩を書いておくのだ

あとからくる者のために
山を川を海を きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために
みんなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々自分でできる何かをしておくのだ

私たちの人生の長さは人それぞれ違いますが、

どんな人生も必ず途中で終わりを迎えます。

ここがゴールなどというものはありません。


私たちに出来ることは、何億年と続く生命のリレーの、自らに与えられた一区間、

この人生をどのように走るか、走ったかということに尽きます。

リレー走者が心掛けることは何か。

それは、バトンを手渡す者たちの為に何が出来るかということ。それに尽きるのです。


自分から人に何かしてあげなさい、などという教えを聞くと、

なるほど確かにそれは善いことには違いないが、こっちが損じゃありませんか、

と思うのが人の心というものです。

しかし、そう思うのは教えの本当の意味が分かっていないからであります。


人に親切にするということは、自分自身が嬉しい。

進んで人のお役に立とうとすることを、自らの生命が求めている。

そのことを私たちに気付かせようにするのが、教えの根本なのです。


人に親切にし、進んで仕事をしようとするとき、

自分の中から大変よいものが湧き出る。

それが嬉しさとなり、気持ち良さとなり、幸せとなるのです。


生命のバトンを繋ぐ一走者として、自分に何が出来るのか。

いつからでも遅くはない。

そこにこそ、本当の幸せがあるのです。

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神様が見ておられる

東井義雄先生の詩に、『「ほんもの」と「にせもの」』というものがあります。

「ほんもの」と「にせもの」は
見えないところの在り方で決まる
それだのに「にせもの」に限って
見えるところばかりを気にし 飾り
 ますます「ほんとうのにせもの」になっていく


人間の品というものは、その人全体から出るもの。

生命全体の言わば調子なのであります。

人間、自分のやましい部分は隠そう隠そうとするものですが、

隠したいと思うものほど、実は表に出てくる。

お金・モノの扱い方、性生活や家族への接し方…。

自分の生命と密接に繋がっている事柄ほど、隠そうとしても必ず表に出てくるのです。


それらを正しくしている人は、それがだんだんとその人の生き方の調子となって表れてきて、

次第に品の良い生き方となる。

逆にそれらを乱していると、それがその人全体の生き方、調子の狂いとなって表れてくる。

そこで品が悪くなっていくのです。


他に知れる、知れぬの問題ではありません。

知られるか、知られないかは、隠しさえすればごまかせるかも知れない。

しかし、誰に知られなくとも、自分の生命の芯に狂いが生じたらどうにもならないのです。

財力があっても名声があっても、生命それ自身が狂ってしまったら、どうすることも出来ません。


「にせもの」の横道はこの人生にいくらでもありますが、それらは皆やがては必ず行き詰まる。

その行き詰まりは大変苦しいものでありますが、実はそこが有り難いのでありまして、

行き詰まるからこそ引き返す気にもなるし、神様を信じることも出来るのです。


信心をさせていただくということは、

この天地の神様に恥じない生き方をさせていただこうと心掛けることであります。

どんな時も、「神様が見ておられる」とわが心に問うことなのであります。

神様の「みこころ」

念仏詩人と言われる榎本栄一(えのもと えいいち)さんの詩に、

『みこころ』というものがあります。

天は最大の

教育をしてくださるが

あわれこの生徒は

天のみこころが

なかなかわからずもがく


人間、生きていれば必ず「逆境」に遭うものです。

不遇な境遇に置かれ、物事が上手くゆかず、先行きの見えない不安が、日々、心に重くのしかかる…。

何も起きない順風満帆の人生なんて無いはずです。

しかし、そのような逆境を乗り越え自らの人生を謳歌している人もいれば、

その逆境に耐えきれずに自ら命を絶つ人もいる。

この違いは一体どこから生まれるのか。


榎本師は、その逆境を「天からの教育」としてとらえ、受け切ろうとしておられる。

その事柄を通して天のみこころを分からせて頂きたいと願っておられる。

逆境に遭った際、その逆境を「不幸だ、不運だ」とただ嘆くのか。

あるいは、榎本師のように、その逆境を神様からの与えられた教育として受け取るか。

これは大変大きな違いであります。


お道の教えには、このようにあります。

『神は、人間を救い助けてやろうと思っておられ、このほかには何もないのであるから、

人の身の上にけっして無駄事はなされない。信心しているがよい。みな末のおかげになる。』


嬉しい出来事を感謝することなら誰にでも出来ます。

しかし、逆境の淵に立たされてもなお、神様有り難しと手が合わせることが出来るのは信心あってのことでしょう。

神様が可愛い可愛い氏子に対し、わざわざ氏子が困るようなことを教育として、

差し向けておられるのです。

ですから、こちらとしては、その差し向けられた事柄の中にある

神様の「みこころ」をしっかりと受け取らせて頂こうじゃありませんか。

その先には必ず幸せが準備されているのですから。

「信じる」とは

お道の教えにこのようにあります。

『神は人間の親様である。

 信心をする者は、一生死なぬ父母に巡り合い、おかげを受けていくのである』

神様とは、人間を祟ったり罰を与えたりする存在では無く、

人間を愛してやまない親神様であります。


考えてみれば、数多ある人間関係の中でも親と子の間柄ほど、

根本的に「善いもの」はありません。


何故それほど善いかと申しますと、それは、親が子を無条件に許すところにあります。

親は子どもの事を子ども自身が知っているよりもよく知っており、

子どもの欠点短所をもよく知っていて、その上で可愛がることが出来る。

また欠点短所を許すことが出来る。


子どもからすれば、この「知っていて可愛がってくれる」、「知っていて許してくれる」、

ここに有り難いところがあり、助かるところがあり、育てられるところがあるのです。


自分の秘密を親ほどよく知っていて、もし可愛がらないということになれば、

これほど恐ろしい敵はいません。油断も何も出来たものではない。

けれども、子どもが親の前では用心せねばという気が少しもしないのは、

自分のそのまま、ありのままを親が愛してくれる、許してくれる、と子ども自身がよく知っているからなのです。


その深い親しみは何とも言えぬものですが、

もし名をつけるとすれば、これこそが「信じる」という心持ちでありましょう。


他の人間が自分のことを本当に愛してくれていると信じ切れる時、

人は心から落ち着くことが出来ます。その代表例が、親と子の関係であります。


同じ親でも、神様は人間よりも遥かに気が長く、心が広い。

責めるところが一切無い為に、ものを言われることもない。

これ程愛情深い親はいないのです。


私たちがこの人生で信心のご縁を頂くことは、その親神様と出逢ったということ。

その「一生死なぬ父母」に巡り合えたことに御礼を申し、

親に恥じぬ生き方を心掛けていくのが、信心の中身となるのです。


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