FC2ブログ

湧かし出す力

お道の教えにこのようにあります。

『金の杖をつけば曲がる。竹や木の杖をつけば折れる。

 神を杖につけばよい。神は、曲がりも折れも死にもなさらない。』


何かをアテにして生きるというのは、

ちょうど杖をついて立っているようなものであります。


お金を持ちたい、地位名声を得たいという心は誰にでもあるものですが、

何故そういう心を持つかと言えば、お金や地位名声が無いと心細いからです。 


心細く、自分一人ではしっかり立っていられない気がするので、

お金の杖、地位名誉の杖が欲しくなる。

また、そのような心持ちでありますから、杖はなるべく多い方が安心で、

それで他人の持っている杖でも、出来る限り自分の方に余計に取り寄せたくなるのです。


しかし、心細い心を杖でしっかりさせようと杖を増やせば増やすほど、

自分の足で立とうとしないことから、人間はさらに弱くなっていくのです。


何もお金や地位名誉が悪いのではありません。ただ、

それらをアテにして、その助けでしっかりしたいという浅ましい心が改まらない限りは、

どうしても持っているものについて心配が絶えず、

それを増やそうということにばかり心を痛め、

そのために人と争いさえしなければならないことになります。


それではお金や地位名誉を持っている人は皆間違っているかと申しますと、

決してそんなことはありません。中には本当の持ち方をしている人もおられます。

それは、杖ではなく、枝として持っておられるのです。


杖は自身を支える為に外から借りてくるものですが、

枝は自身の中から栄えて出るもの、湧き出るものです。


自身の中から湧き出たものは、人から取っていかれる心配はありませんし、

人に差し上げたとしても、自分が倒れてしまう心配も無い。


「神を杖につけばよい」との教えは、自分自身の中に、神様が居られるということ。

外のものを頼りにして杖につかなくても、この自分の中には、

湧かし出す力が与えられていることに気付かせる教えであります。

その力にさえ目覚めれば、杖が無くても、

心細い気がしないようにならせていただけるのです。

有り難き心

信心というものを一言で表せば、自分自身が「有り難い」と思う心持ち。

それが信心なのである。

私はこのように頂いております。


例えば、信心の話をするにしても、色々な心持ちで話をすることが出来るでしょう。

人からよく思われようとか、褒めてもらおうとか、金儲けの種にしようとか、

色々な心持ちで話が出来るわけですが、

私としてはそういう心持ちよりも、有り難いという心持ちだけで、お話をさせて頂きたいと思うのです。


仕事をする時にも、有り難いという心持ちだけで仕事をさせて頂きたい。

寝る時には、有り難いという心持ちの中で寝させて頂きたい。

心配したり、腹を立てたりして寝ることはしたくない。


人に対する心持ちでも、相手に対し、有り難くない心、

非難する心を持つことは自分自身が大変辛いことであります。

相手のことを、有り難いという心持ちで見ることが出来たならば、

いつも良い言葉と態度で相手に向かうことが出来る筈です。  


そのように、自分がさせて頂く事柄、出逢う出来事や人々は、

その時その場合で色々でありましょうとも、

いつも自分の心の内に「有り難い」という思いがある。

それが信心なのであります。


そのような有り難い心持ちで生活を送って行くことが出来るとしたら、

それこそが私たちにとって一番の幸せに違いありません。


お道の教えにこのようにあります。

『三年五年の信心では、まだ迷いやすい。

十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。』


不足が出るところが不足が出ない。腹が立つところが腹が立たない。

わが心で自分の心の内から、有り難い心(信心)が湧き出るようになる。

それには十年かかると御教え下さっているのです。


火は自身が暖かいばかりでなく、周囲のものも暖かくします。

自身が明るいとともに、周囲のものまで明るくするのです。

信心する者も同様に、自身が有り難いばかりではなく、

人をも有り難い心にならせることが出来る。


信心とは、自分が幸せになるだけでなく、周囲の人間をも幸せにする。

大変有り難いことであります。

修行の意味

修行というと「そんなことやって何か意味があるのか」などと言い出せばきりがないですが、

実際に繰り返し続けてやっていけば必ず見えてくるものがあります。

古人の言葉にあるように「それはやった者にしか分からない」ものであります。


これは自分にとって大変なことだとか、

苦しい修行をすること自体に価値があるわけではなく、

神様に「させて頂きます」とお願いをし、自ら進んで自らに課した修行をしたときの、

その時の自分の心を見ていくことに大変価値があるのです。


例えば、このお道には御祈念修行というものがありますが、

これは只ひたすら、朝から晩まで御祈念を唱え続けるというものであります。


1時間もすれば喉が渇いて声がかすれてきますし、2、3時間で意識が朦朧としてくる。

実際にさせて頂きますと、なかなかの苦行であります。


そうしますと、最後あたりは自分が唱えているのか神様が唱えて下さっているのか、

よく分からない状態になってくる。自分の力で修行をしている、というような気持ちが無くなり、

最後までやり遂げさせて頂けるところに感謝の念が生まれてくる。

そういう経験を毎日させて頂けば、理屈は抜きにして、

「神様、有り難し」という気持ちが心と体に染み入ってくるのです。


お道の教えに、「真にありがたしと思う心、すぐにみかげのはじめなり」とあります。

一度有り難い心が自分の中に生まれますと、

人を責めたり、愚痴・不足を言ったりといったやましい心は一切無くなって、

曇った心も明るくなり、自分の方から周囲に対して

有り難い心を現していきたいという気持ちが起こってまいります。


おかげを頂くと言いますと、自分の周りの環境が

自分にとって都合良く動いた時によく言われたりするものですが、

周りの環境がどうであろうとも、自分自身に有り難い心が定まっていて、

その有り難い心を持って人に親切にし、

物事にあたっては実意丁寧な生き方ができるようになる。

それこそが、真の助かりであります。


そのような自分にならせて頂けるよう願い、

行じていくところに、本当の意味があるのです。

仲良くなりさえすれば

『よいもの よいこと よい仲から』(高橋正雄師)

人間が本当に「よい」、嬉しいなぁ、楽しいなぁ、有り難いなぁと感じるものはすべて、

自分と他人との間柄、関わり合いの中に生まれます。


全ての人間が、人に対して、心から愛し合い、信じ合い、

良い心持ちで付き合うことが出来るようになりたいと心の底では願っているのに、

それがなかなか出来ない。


そして、その出来ない原因が、相手の悪いところにあると思うところから、

色々な不平不足が心の中に生まれ、また口からも出て来るのであります。


しかし、「仲」というものは自分だけでつくるのではなく、

また相手だけでつくるのでもない。

自分と相手との言わば「合作」なのであります。


そのように考えてみますと、仲が悪いということは、

相手もさることながら、自分にも少なからず原因がある、ということが分かります。


お道の教えにこのようにあります。

『自分が正しいと思うことが、自分の敵である』

そもそも、不平とか不足とかいうものが起こるというのは、

自らの心のどこかに「自分は正しい」と思うところがあるから起こるのです。

それこそが己の敵である、という教えであります。


深刻な人間関係の問題を解く道は唯一つ。

それは、自分自身の至らなさ、未熟さに気づいて、自ら詫びることであります。

自分の手元に、こだわりがあったり、曲がったものがあるから人間関係に行き詰まるのです。


人間の仲というのは不思議なもので、

仲の良い者同士の間では、悪いところが不思議と出てこない。

出ても悪いと感じないのです。


それは、何も仲が良くなったから、急に相手が善人になったのではなく、

仲が悪くなったからといって、急に悪人になるわけではありません。


相手はそのままでありながら、

仲さえよくなれば、悪く思えないようになるのです。

ここに、人間の間柄の妙味がある。

ですから、人間というのは、そう単純に良し悪しなど言えないものである。

このことをいつも心に留めておかなければなりません。
ランキングに参加しております!
いつもクリック頂き、        誠にありがとうございます。   アヒルちゃんとネコちゃんを     1日1回ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking 人気ブログランキングへ

お越し頂きありがとうございます!
ご連絡はこちらよりどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
最新記事
カテゴリ
FC2カウンター