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祈り祈られ

仏教詩人として知られる坂村真民さんの詩に

『幸せの帽子』というものがあります。


すべての人が幸せを求めている
しかし幸せというものは
そうやすやすとやってくるものではない

時には不幸という帽子をかぶってやってくる
だからみんな逃げてしまうが
実はそれが幸せの正体だったりするのだ

わたしも小さい頃から
不幸の帽子をいくつもかぶせられたが
今から思えばそれがみんな
ありがたい幸せの帽子であった

それゆえ神仏のなさることを
決して怨(うら)んだりしてはならぬ


一見「不幸」に見えることの中に、

神様の願いがどれだけ込められているかということを考えさせられます。


プラスを感謝することなら誰でも出来るでしょう。

しかし、苦悩や絶望といったマイナスの淵にあって、

「ありがとうございます」と手を合わせることが出来るのが

信心のありがたさであります。


苦悩や絶望が縁となって、神様の願いに気付かせていただき、

真の生き方に目覚めるのです。そこから自然と手が合わさるようになる。

お道の教えに、このようにあります。

『神は、人間を救い助けてやろうと思っておられ、

このほかには何もないのであるから、人の身の上にけっして無駄事はなされない。

信心しているがよい。みな末のおかげになる。』


神様は人間の親であります。親は、たとえ子どもが

親の恩を分かっていなかったとしても子どもの世話をし続け、心配をして下さいます。

そして、子供の至らないところは、改まり成長できるよう、

祈りに祈りながら長期に亘って時節を待って下さいます。

私たちが逆境の中で「助けて下さい」と神様に祈る遙か前から、

実は神様が祈って下さっているのです。

最善、最高、最適の神様のお働きの中で、

生かされ生きていることを忘れてはなりません。

真実の道

中国・唐の時代、大寧院可弘(だいねいいんかこう)禅師に、

弟子の一人が問いました。


「この道さえ歩いてゆけば、絶対にまちがいのない、

 真実の道とは、一体どのようなものでしょうか」


禅師はたった一言答えました。

「七転八倒(しちてんばっとう)」(七回転んで八回倒れる)と。

普通なら、何度転んでも起き上がる「七転び八起き」という言葉を期待するところですが、

禅師はそうではなく、転びっぱなし、倒れっぱなしの「七転八倒」。

つまり、失敗の連続こそが真実の道だ、と弟子に教えたのです。


確かに人間というのは、どこまでいっても未完成、不完全であり、

生きていれば必ず、転んだり倒れたりを繰り返すものであります。


しかし、それでもなお、禅師が「七転八倒」を勧めたのは、

その転んで倒れることの中にこそ、

私たちが人間的に成長できる面がたくさんあるからではないでしょうか。


例えば、病人へのお見舞いでも、自分も同じ病を患ったことがあれば、

心のこもった慰めの言葉が出てくるものです。

そして、そのように人を慰めることで自分が慰められるという働きにも、

気付くことが出来るでしょう。

それは「病」という一つの石に転んで倒れた経験のおかげなのです。


お道の教えに、このようにあります。

『これほど信心するのに、なぜこういうことが出てくるのだろうかと思えば、

 もう信心はとまっている。
 
 これはどこまでも私の勤めるべき役であると思って、

 信心をしていけば、そこからおかげがいただける。』


肉眼で見れば「災難」であることも、信心の眼で見れば、

それは神様から与えられたプレゼントなのです。

そのことに七転八倒する中に、どれだけの願いが込められており、

飛躍の種が隠されていることか。

このことに眼を向けることが信心であります。

一見マイナスに見えることの中に、実は大きなプラスがある。

そして自分にプラスになったとき、自然と「おかげさま」が口に出ます。

転ぶことも「おかげさま」。倒れることも「おかげさま」なのです。

神に会おうと思えば

遥か昔から有神論者と無神論者の間で

「神は存在するのか、しないのか」という

途方も無い議論が繰り返されていますよね。


お互いに一歩も引くことなく考えを主張し合うのですが、

この議論の展開はおおよそ決まっていて、

結局最後は「存在することも、存在しないことも証明することはできない」

というどっちつかずの所で幕が下されます。


こうした議論を見たり聞いたり、時には当事者に立たされたりしたときに、

神は説明して分かるようなものではないということを痛感させられます。


なぜ神を信じられないかと言えば、やはり一番の理由は目に見えないものだからでしょう。

目に見えないものは、いくら人から説明されてもやはり見えないものですから、

疑えばキリがありません。

しかし、この世の実際は、目に見えないものが、目に見えるものを支えているのです。

「大切なものは、目に見えない」と言いますが、

美しく咲く花も、目には見えない地の下の根が咲かせています。 

誰が考えても疑いようのない、自らの命でさえも、目に見えない働きのよって生かされているのです。


神が分かるということは、信心が進んでいく中で

自分の命、生活は自分だけのものでなく、

一切の働きによって恵まれて生かされているのだと気付くところから分かってくることであり、

説明して分かるというようなものではなく、感じ取るものなのです。


金魚鉢の中を泳ぐ金魚は、

鉢の中の水を泳いでいることを知らないのと同じように、

人間も目に見えない大きな働き、そのお恵みの中で生かされていることが

自分自身にはどうしても分からない。分かったとしてもすぐに忘れてしまうようです。


お道の教えに

『神に会おうと思えば、庭の外へ出て見よ。空が神、下が神。』

とあります。


信心の話というものは他人の話ではなく、

どこか遠く離れた所の話でもありません。自分の話、命の話なのです。


「神は存在するのか、しないのか」という議論の前に、

自分というものが分かる、命というものが分かるということに、

自らの命をかけて取り組むべきではないでしょうか。

祈りと仕事

京都大学の外科部長であり、執刀医として“ゴッドハンド”と呼ばれた、

青柳安誠(あおやぎ やすまさ)氏は、「手術は祈りである」と言いました。


もちろん、メスを使っての手術には違いないのですが、

青柳氏は執刀する瞬間、必ず神様に祈っておられたそうです。

いくら技術があっても、また簡単な手術であっても、

人間なのだから間違いを起こすかも知れない。

つまり医者として最善を尽くすだけでは、まだ足りないから、

どうぞ、この手術がうまくいきますようにと祈る必要があるというのです。


ビジネスの世界でも、稲盛和夫氏に、このようなエピソードがあります。

まだ京セラが中小企業であった頃です。

IBMの仕事を初めて受注した際、

当時の京セラの技術力ではとても超えられないような難しい注文で、

いくら試作を重ねてもうまくいきません。


若い技術者たちも徹夜の連続でついに疲れ果て、泣きだしてしまいました。

そこで稲盛氏は彼らにこう聞いたのです。

「神様に祈ったのか?」と。

神様に祈る、そういう敬虔な気持ちで努力しなければならないのだ、

と技術者たちは受け取り、この難題を見事に乗り越え、

当時まだ弱小零細であった京セラが一大飛躍を遂げていくきっかけとなったそうです。


お道の教えに、

『仕事をするというから神は見ている。

 仕事をさせていただくという心になれば、神はつきまとってさせてやる。』

とあります。


自分の力で「する」、「してやっている」仕事には、必ず不満と不足が伴います。

それは、自分のものさしで仕事の大小、上下を決め、

自らの心から「つまらない仕事」「取るに足らない仕事」を生み出してしまうためです。


一方、神様から与えられた仕事として有り難く「させていただく」仕事には、

感謝と満足が伴います。


それは、仕事の大小に関係なく、仕事を通じて誰かの幸せを願い、

誰かの役に立とうとする願いが心の中心にあるためです。


この心で行えば、仕事は何でも神様の仕事になります。

そして、神様の仕事をさせていただいている時、人は最も輝くのです。
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