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対立する心

ここに大変仲の悪い二人が居たとしましょう。

二人とも心の底では、お互いに仲良くしたいと願っているのですが、

その方法については、自分に近いように、

自分の好きなように、相手に変わって欲しいと願っています。


しかし、二人の人間が同じ考え方、価値観になることは

実際には大変難しいことであり、ここに人心の限界があるのです。


では、二人が永久に仲良くなることが出来ないのかと言えば、

そんなことはありません。共に助かる道が必ずあるのです。


そのためには、二人を包み込み、そのままの考え方、

価値観を受け入れ、愛してくれる力が分かれば、

相手をそのままに許すことが出来るようになる。

それが神心を知るということです。


もし仮に片方の考え方、価値観を無理矢理

もう片方と同じようにしたところで、

本当に二人の仲が良くなるかと言えば、

それは決して長続きしないものです。じきに必ず壊れます。

何故なら、それがそもそも無理な解決法だからです。


例えば私が妻と本当の夫婦になろうとするならば、

妻には誰よりも彼女本来の生き方をしてもらわなければならないと思うのです。


私の勝手な好みや考えで押さえつけ、妻をつまらない女にしてしまっては、

どうして妻との間に愛を成立することが出来るでしょうか。

彼女がしっかりとした独立した人格として生き切ってくれてこそ、

そしてこちらも一個の男として生き切ってこそ、

二人の間に愛というものが成り立つのであります。


本当の仲というのは、夫婦であれ友人であれ、

相手を生かし、自分を生かし、生きる上で一つになることであります。

相手を変えよう、従わせようとするのではなく、

そのままを受け入れ、許すところに人間が助かる道があるのです。


お互いの長所短所も、見え方が違うだけでお互いが持っているものなのです。

それをそのまま愛して下さる、許して下さる神様がおられる。

自分も有り難いが、相手も有り難いものだという心持ちになれば、

決して無理が無く、相手と一つになることが出来るでしょう。

有り難い心

信心というものを一言で表すならば「有り難い」と思う心持ち。

それが信心であります。


この天地の中での一切の出来事、人との間柄は様々でありますが、

それが信心の稽古をさせて頂くことで、だんだんと変わってくる。

それが心から有り難いと思える様になってこそはじめて

自分が本当に幸せになり、救われたことになるのです。


そこでもう一つ進んで、周囲の人間を幸せにするとはどういうことか。

例えば妻に何をしてあげることが、一番妻を愛することになるか。

高価な洋服を買ってあげることも愛することですし、

行きたいと言う場所へ連れていってあげることも愛することには違いありません。

けれども妻自身がどのような事に出逢っても

「有り難い」と思える人間になれた時こそが妻の一番の幸せでありますから、

そうなれるように、つまりは妻の信心が進むようにしてあげることこそが、

夫として一番妻を愛することになるのです。


自分の子どもに対しても、

教育をつけてあげるとか、財産を残すことも愛することには違いありませんが、

一番大事なことは、事に当たった時にいつでも

「有り難い」と思える人間に育てることが出来たならば、

私は一番親として安心であろうと思います。


いくら学歴や収入が高くなっても、

心の内に有り難いという心を植え付けてあげることが

出来なければ駄目なように思うのです。


そのように、妻や子ども対して、また誰に対してでも、

人を愛して大切にする道とは唯一つ。

それはどうすれば出来るかと言えば、

まず自分自身が有り難い心持ちの人間になること。これしか無いのです。


私が不平不満ばかりであって有り難いという気持ちでなかったら、

いくら妻にそういう心持ちになれと言っても、それは妻には判らないでしょう。

いい加減に聞くのが当たり前であります。


ところがもし私自身が有り難いという心持ちになれば、

口では何も言わなくとも、きっとその心は皆に響くと思うのです。


まずは自分自身が有り難い心になること。

そうなれば、自分自身が幸せになり、

周囲の人を愛することになり、親切を尽くすことになるのです。

道が分かるということ

中国・唐の末期に趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん)という禅僧がおられました。

ある時、一人の雲水が

「道とは何ですか?」

と問うたところ、趙州和尚はあっさりと

「墻外底(しょうがいてい)」 道なら垣根の外に在るわい、

と答えました。

雲水は馬鹿にされたと思って、

「私がお尋ねしているのは、その道のことじゃありません」

と口をとがらして言いました。

「では、何の道を尋ねておるのか」

「仏教の大道を尋ねているのです」

すると趙州和尚はこう答えます。

「ああ、大道は長安に通っておる」

と。有名な公案であります。

『道』というものが何か高尚な概念だと決めつけている雲水に、

垣根の外の小径もたどっていけば都に通じているように、

生活の全て、一挙一動が人として踏み行うべき正しい道、大道に通じているのだ。

つまり、道とは実践なのだと諭したわけです。


お道の教えにこのようにあります。

『信心といっても別にむずかしいことはない。

 親にものを言うように、朝起きたらお礼を申し、

 その日のことが都合よくいくように願い、

 よそへ行く時には、行ってまいりますと言ってお届け申しあげよ。

 そして、帰って来れば、無事で帰りましたとお礼を言い、

 夜寝る時にはまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、それで信心になる』。


神様がどこにいて、どのような姿で、男か女か、

などというのも、さしたる問題ではありません。


道が分かる、神様が分かるということは、

知識や学問として理解するというものではなく、

自分自身の生き方、信心が進んでいく中で、

自分の命、生活は自分だけのものではなく、

一切の働きによって「生かされて生きている」ということが分かるということであります。


大切なことは、一日一日、「生かされて生きている」

ことに感謝をして生きていくこと。

その想いで毎日の仕事を有り難くさせていただく。

人と物を大事にさせていただく。

それが信心であり、肝心要のところはここにあるのです。

生神様

室町時代に活躍した浄土真宗の僧、

蓮如上人がある田舎町に訪れた時のことです。

糸を紡いでいた老婆が蓮如上人に向かって、

「私は糸を紡ぎ紡ぎ、念仏を唱えております」と言いました。


老婆は心の中で、蓮如上人がきっと

満足の意を表されるであろうと期待していたのですが、

蓮如上人からは思いがけない答えが返ってきました。


「婆様、そうではない。念仏を唱え唱え、糸を紡ぎなされよ」

「糸を紡ぎ紡ぎ、念仏を唱える」とは、

糸を紡ぐという仕事をしながらも信心を忘れずにいる、

ということですが、蓮如上人はそれではいけないと。

そうではなくて「念仏を唱え唱え、糸を紡ぐ」。

つまり、信心を中心に置いて、糸を紡ぐという仕事をしなさい、

と老婆に教えられたのです。


仕事をしている自分がいて、その自分が信心をしているのであっては、

仕事が行き詰まった時、自分自身が行き詰まった時、助かる道はありません。

信心を中心に置けば、神様が中心に居られることになる。

神様が中心に居られて、

信心させて頂いている自分が神様の手足となって働かせて頂くのでありますから、

仕事が行き詰まっても、自分自身が行き詰まっても、

それを乗り越える力を与えて頂けるのです。


お道の教えにこのようにあります。

『生神ということは、ここに神が生まれることである』

通例、神様というのは我々人間とは別にあるように思われていますが、

そうではなく、人間の中に現れる神様、生きた神様なのであります。

それが人間が迷いや欲に引っかかっているから、神様が現れることが出来ない。

奥の方に押し込められている。それでは助かる道がありません。


「自分がする」ではなく、すべて神様に「させていただく」。

神様のお仕事を自分の手足を使ってさせていただき、

神様の生きておられる生き方を、自分の生活をもってさせていただくのであります。

そこにこそ、助かる道があるのです。

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