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雑巾に想う

年末の大掃除では、たくさんの雑巾を使わせて頂く。

雑巾というのは汚い物の代名詞のように使われますが、

まったく違う見方もあります。


念仏詩人と言われる榎本栄一(えのもと えいいち)さんの

『ぞうきん』という詩にこのようにあります。

ぞうきんは

他のよごれを

いっしょけんめい拭いて

自分は よごれにまみれている


雑巾は他の汚れを拭い去りますが、汚れを拭うたび、

自身はどんどん汚れにまみれていきます。

他の物をきれいにし、光らせるために、自分の身を汚す。


そのような見方で雑巾を見させて頂くと、

私たち人間にはとても出来ない働きをしてくれていることに気が付き、

大変尊い想いがするのです。


「願い」という言葉の語源は「ねぎらい」であるそうです。

労うとは、誰かの苦労や努力に対し、

その恩恵を受けている者が御礼を申すことであります。


正月に神社に参って、「あれが欲しい」「これが欲しい」と

自分の希望を並べるのは悪い事ではありませんが、

それは願いの本質ではありません。


雑巾のような、普段は気付きもせぬ、取ると足らぬと

思っているような物に対して、

「お世話になっております。ありがとうございます」と、

感謝の気持ちを込めてお礼をさせて頂く。


物だけではありません。

自分の気付かぬところで、どれだけの人の世話になっているか。

一人ひとりに会って直接御礼をすることが出来ない為に、

神様を通して御礼をさせて頂くのであります。


そのようにして自分の希望ではなく、

お礼を申す気持ちを先に立てていくところに、神様がお働き下さる。

御礼が足りぬだけの分は神様が足して下さる。

ですから人は「願う」ことで助かって行くのです。


年末の大掃除を通して、自分が普段お世話になっているものに、

改めて心を向けさせて頂きましょう。


普段は気付きもしなかったが大変尊いことである、有り難いことである、

という感謝の想いに手を掌わせ、喜びの心で新たな年を迎えさせて頂きましょう。

皆様、どうぞよいお年を。

合掌

今この時を生きて

お道の教えに、このようにあります。

『昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しめ』

過去を忘れるということは、過去を捨てることではありません。

過去は既成の事実ですから捨てられませんが、とらえ直すことはできます。

過去にマイナス思考で受けとめていたものを、プラスに見直させて頂くのです。


私たちが生きていく上で一番大事なこと。

それは、今この時を喜んで生きるということ。これに尽きます。

私たちが幸せを感じたり、不幸せを感じたりするのは、

昨日でもなく明日でもなく、今この時しかありません。


何故人が心配や不安に苦しめられるのかと申しますと、

それは、今この時を生きていないからと言えるでしょう。

今この時を生きずに、過去や将来の事ばかりに

目を向けているからどんどん苦しくなっていくのです。

天気でも、明日は晴れるか、晴れないかと

いくら心配してみたところで、実際には明日になってみないと分からないのです。

分からないことを土台にしてあれやこれやと

考えることが心配・不安であるのに対し、

今この時、目の前にあるものへのお礼を土台に

生活を進めていくことが信心であります。


朝、目が覚めたら、今日も生命を頂いたことにお礼を申し、

布団にお礼申し、洋服に「お世話になります」とお願いする。

食事は食材を与えて下さった神様と

食品の加工や調理に関わったすべての方々にお礼を申し、

食器に「お世話になりました」とお礼を申しながら洗わせて頂く…。

そのようにして一日を過ごして頂くのです。


もちろん布団も洋服も食器も返事はしません。

しかし、物を通して神様にお礼を申すのです。


人目があるからするのではない。

人に向かってするのでもない。

神様に向かってさせて頂く。 


そういう生き方を進めてまいりますと、

心配が減って有難いものがだんだんと増えてまいります。

そして有り難い生活を進めていくところにこそ、

有り難い出来事は起きてくるのです。

神様に使われる信心を

お道の教えにこのようにあります。

『神を使うて、神に使われることを知らず』

世間一般的に、信心とは「自分が神様を信じること」と考えられています。

かく言う私も、長い間そのように考えておりましたので、

大変よく分かるのですが、そのような信心をする人は、

「神様がいるか、いないか。自分がどれだけ神様を信じることができるか」

ということが信心の問題となります。


しかし、そのような考えの人が「神様を信じる」と言ったところで、

自分が神様を信じるのでありますから、

神様というのは自己の神認識の程度を出るものではなく、

信心の中身も自己の性格や考えによって偏ったものとなります。


また神様に向かって深々と頭を下げているようであっても、

それは形だけのことであって、実際には自分の意向が主となり、

自分の願いに合わせて神様に働いてもらおうとしているのが信心の中身なのです。


そのようにして、自分にとって神様が必要な時には、

「神様、神様」と言って近づき、感涙にむせぶこともありますが、

必要でない時には忘れてしまうか、あっさりと見切りをつける。

挙げ句の果てには神様に責任を押し付けたりもする。


『神を使うて、神に使われることを知らず』という教えは、

そのような自分本位の信心をする者には天罰が当たるなどということではなく、

そのような信心では本当の意味でその人が助かって行かない、

ということを嘆かれた教えであろうかと思うのです。


これまで神様を使うばかりであったならば、

これからは神様に使われるような自分にならせて頂く。

神様に使われることを、このお道では「御用」と言います。


教会で御祈念をし、神様に願ったならば、

わが身に神様を頂いて家庭や職場に御用に行かせて頂く。

家庭や職場に難儀があれば、その難儀のある家庭や職場の中に入り込んで、

わが身を使って人を助ける神様の御用に立たせて頂くのです。


これからは人を助ける神様の御用をさせて頂くと心に決めて、

自分の生活を通して、神様の生きておられる働きをさせて頂くことが真の信心なのです。

慢心

人間の性(さが)とは悲しいもので、

金を持たない者が多少の金を持つようになると、

金を持たぬ者を見下す心持ちになる。

大きな会社に勤めれば、小さな店を侮って見るようになる。

役職に就けば、今まで同輩であった者に対して、尊大な態度で接するようになる。


人間の自己顕示欲が、競争社会の中で勝ち得た優越感から、

醜い相として現れるのです。


かつて経営の神様と呼ばれた松下幸之助は、

「豊臣秀吉もナポレオンも素晴らしいリーダーであったが、

二人とも幸せな晩年を迎えることはできなかった。

それは、おそれるものがなかったからだ」

と部下に教えたそうであります。


実業会において、怖いものがないほど登りつめられた

松下幸之助が教えた「おそれ」とは、

ただ何かを怖がるというような意味ではなく、

神仏を畏れ敬い、人間の欲望を畏れ慎む

という意味が込められていたのではないかと思うのです。


いくらお金を稼げるようになったからと言って、

また、いくら人としての生き方が分かったからと言ったところで、

自分の思いや行いが百パーセント間違い無いなんてことは有り得ません。


気を抜けば、怠け心が起こる。

傲慢になる。

人を見下したりもする。

そうなってしまう自分の弱さが怖い。

また、そのような傲慢を許さない、

この天地を貫く道理、働きというものが怖いのです。


お道の教えに、このようにあります。

『人間は、財産ができたり、先生と呼ばれるようになると、

 頭を下げることを忘れる。信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。

 とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、

 天で頭を打つのが一番恐ろしい。

 天は高いから頭を打つことはないと思うであろうが、油断をするな。
 
 慢心が出るとおかげを取りはずす。』


幸せや成功があるのは決して自分の力からではない。

もともと何の力も無い自分が、この天地に生かされて、

人のお役に立たせて頂いているのであります。

何事も「させて頂く」ことである、ということを忘れてはなりません。

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