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信心で受け止める

御霊地で修行させて頂いていた時のことであります。

朝の御祈念に参らせて頂く道中、

前を歩く先生の足元がたいへん腫れておりましたので、

「どうされましたか」と尋ねたところ、

先生は、「神様に叱られました」と答えられたのです。


「どうされましたか」という私の質問は、

足の腫れの原因が病気によるものなのか、

何か事故に遭ったのかということを尋ねているわけです。


それに対して、先生はその足の腫れを信仰的に捉えて、

自分の生活態度、心掛けの問題を反省したところから、

「神様に叱られました」と答えられたのです。

これには深い感銘を受けました。


今日では医学知識が一般化し、足が腫れた場合にも、

何故そのような腫れが生じているのか、

どのような処置をすればよいのか等ということは、大方見当がつきます。

しかし、ただ単に病気やケガを知り、手当てをするだけでは、

その病気やケガをわずらっている人間が助かることにはならない。

愚痴や不満に陥ることにとどまって、

人間の助かる生き方は生まれて来ないのです。


災難についても同じことです。

起こり来る事態について、

自分と神様との関係を離れて、ただ災難とだけ捉えたのでは、

人間が生きていくうえに助かる生き方は開かれてこない。


お道の教えにこのようにあります。

『これほど信心するのに、なぜこういうことが起きてくるのだろうかと思えば、

 もう信心はとまっている。

 …これはどこまでも私の勤めるべき役であると思って、

 信心をしていかなければならない。

 そこからおかげがいただける。』


病気なら病気のままに、そのことを自分の勤めるべき役として、

その病気をしっかりと味わい、そこで自分の生き方を見つけていく。

病気になったおかげで、健康のときにはわからなかった

人生の別の価値がわかり、他の病苦が察せられるところから、

本当の意味で病人を慰めることができる。


自分はそのためにこそ病気になったのだ、

そう思えるようになった時、

失ったものより遥かに大きなものを手にしたことになるのです。

重荷を担う祈り

インドの有名な哲学者タゴールの詩に、このような一節があります。

わが重荷を軽くせよとわれは祈らず
われをして重荷を担うことを、
得るものたらしめよ
というが、わが祈りなり

一般的に信心とは、不幸災難から逃れ、

平穏無事な日々を送ることが目的とされていますが、

タゴールの祈りには、そのような不幸災難から逃れようとする心情はありません。

むしろ、不幸災難に打ち克っていこう、

困難の渦中においても幸せに生きていこう、

という主体的な姿勢が祈りに込められているのです。


人間は皆、必ず何かで苦しむものです。

その一人ひとりの苦しみも、決して生半可なものではありません。

胸につかえる問題は誰の人生においても、次々と起きてまいります。

しかし、その苦難の中にどれだけの神様の願いが込められているか、

一見無駄に見えることの中に、どれだけの恩寵があるか、

ということに心を向けることが信心であります。


苦悩や絶望が縁となって、神様の願いに気付かせていただき、

真の生き方に目覚める。

そこから自然と手が合わさるようになる。

いのちの根が深くなり、

よりしっかりとした人生を送ることが出来るようになるのです。


確かにこの世の中は生きづらい。

一面から言えば、人生とは苦労の連続であります。

しかし、その苦労を乗り越えずして、何を乗り越えると言うのでしょうか。

そこを乗り越えて行くところに「生き甲斐」というものがある。


もしこの世のすべてがやさしくて、

楽しい事ばかりだったら世の中は決して面白くないはずです。


生きづらい世の中を一生懸命に生き抜いてこそ、

生きる喜びを感じることが出来るのであります。


人間の本当の幸せとは、人生で出逢う苦難を、

自らの心が乗り越えた先にあるのです。

その真実を何時も忘れないように、祈らせて頂きましょう。

教えの本当の意味

お道の教えにこのようにあります。

『人にはできるだけのことをしてあげ、

 人に物をやりたくてしかたがないという心を持ち、

 自分だけよいことをしたいというような心を持つな』


自分から人に何かしてあげなさい、自分より人を大切にしなさい、

などという教えを聞くと、

なるほど確かにそれは善いことには違いないが、こっちが損ではないか。

口で言うのは簡単だが、実際にはとても出来る事ではない、

と考えるのが人の心というものです。


しかし、そう考えるのは教えの本当の意味が分かっていないからであります。


人に親切にすることは、自分自身が嬉しい。

進んで仕事をすることは自分自身が気持ち良いのだ

ということを私たちに気付かせようにするのが、教えの根本なのではないでしょうか。


人に親切にし、進んで仕事をしようとするとき、

自分の中から大変よいものが湧き出る。

それが嬉しさとなり、気持ち良さとなり、幸せとなるのです。


花というのは、自らの草木・枝の中から湧き出でて咲いています。

決して苦しんで咲いているのではないでしょう。

中から湧き出る自分の力が溢れて、花を咲き誇っているのです。

喜んで花を咲かせるところに花の本性があります。


人間の中にも限りない愛情、親切心が恵まれていて、

そこにこそ自分の幸せの根源が隠されていたことに気付くことが教えの要諦です。


僅かな知恵でも、親切でも人のお役に立つことが出来る。

この手足だって使い方によっては人のお役に立つことが出来る筈です。

人のお役に立つものを私たちは神様から与えられて生まれて来たのです。


そして、自身の中から湧き出たものは、

人に差し上げたとしても、また直に湧き出てくるものですから未練も残らない。

自分が倒れてしまう心配も無い。


誰に何かしてもらわなくとも、自分自身から溢れ出ずる生活、

幸せになることが出来るということを、

「教え」は私たちに教えてくれるのです。

教えを頂いて

臨済宗中興の祖と称され、

五百年に一人の名僧といわれた白隠(はくいん)禅師が、

天狗の鼻を一番高々としていた若い頃のお話です。


「天下どこを見渡しても、皆つまらん奴ばかりだ。

 おれに太刀打ちできるような偉い奴はいないのか」

と豪語する白隠禅師に対し、ある友人が

「それなら信州の飯山にいる正受(しゅうじゅ)老人に会いに行け」

と言いました。


白隠禅師は

「なんだ、そんな田舎者ごときが」と思ったようですが、

とにかく行ってみることにしました。

そして正受老人に会うとすぐさま、

得意の議論を始めようとあれやこれやと話し出したのですが、

正受老人からは思わぬ返答が返ってきたのです。


「お前の話はみな本を読んで知ったものばかりだ。

 そんなものは何の値打ちもない。

 お前が本当に自ら会得したものは何だ。

 お前の本当の物を出せ」


これには秀才、白隠禅師も何も言い返せずにいたところ、

「この馬鹿野郎!」と一喝されたのでした。


これをきっかけに、白隠禅師はこれまで自分がやってきた修行姿勢を反省し、

自慢の蔵書を焼き払い、正受老人の弟子となって、

炊事係を務め自分の心と体で考え出すことを始められたそうです。


教えというものは、ただ耳で聞いたり

頭で分かったというだけでは何の役にも立ちません。


耳に聞くだけでなく、心に聞く。

心に聞くだけでなく、自分の身体に聞く。

実生活、人間関係の中に教えが表れた時、

それが本当に教えを頂いたということになるのです。


お道の教えにこのようにあります。

『しんじんとは信の心ではなく、神人(かみひと)と書く』と。


教会で神様に助けて下さいと、先生にも一緒に願ってもらって、

少しばかり心が楽になったなぁと言って帰ることが信心ではありません。

教会で神様に願ったならば、

わが身に神様を頂いて、難儀のある家庭や職場に行かせて頂く。

その難儀の中に入り込んで、

わが身を使って人を助ける神様の御用に立たせて頂くことが信心であります。


教えを頂いて、神様の働きを

自分の心、体で現して行こうとするところに道がついていくのです。
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