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人生の休憩所

人生はしばしば登山に喩えられますが、

実際に山登りをさせて頂きますと、

ただひたすら登り続けるというものではないことに気付かされます。


どのような山を登らせて頂いても、

ある程度登ったところで必ず平らな場所が用意されている。


おそらくそれは、山を登った先人たちが、

後から登る者たちの為に、ちょうど良い距離、ちょうど良い場所に

「休憩所」として準備して下さったものなのでしょう。


人生で言えば、成功や成長を求めて

一生懸命に頑張っている時とは、まさに山に登っている最中であります。

しかし時に様々な理由から登れない時がある。山でいう平らな場所に出逢うのです。


人によってはその平らな場所のことを、

挫折とか失敗だとか言ったりするのですが、決してそうではありません。

それは神様が準備して下さった休憩所なのであります。


休憩所の休憩所たる値打ちは、

そこでこれまで進んで来たことを整理して、

そこから更に次に進んでいくための用意をするところにあります。


今より高い場所に登るために必要だからこそ、

神様がわざわざその休憩所を準備して下さっているのです。

ここでしっかりと今までのことを省みて感謝をさせて頂かなければなりません。


ここまで登ってくるためにどれだけの人が力を貸してくれたか、助けてくれたか。

目には見えぬ働きにどれだけ自分が助けられてきたのか、

と自分自身に問うてみてはいかがでしょうか。


自分と他者、自分と自然との関わり合いを見つめ直すことで

開けてくる人生があります。

自分を生かす無数の働きに目を向け、耳を傾けることで、

もちつもたれつ、「お陰様」の本当の姿が見えてくるのです。


夏の暑い太陽の直射も、大樹の茂る枝葉が涼しい陰をつくってくれます。

その働きを、恩恵として受けとめて、「お陰様」となるのです。


山を登ることに必死になっていた時には

見えなかったもの、聞こえなかったもの。

そこに気付かせて頂く、また再確認させて頂くところに

休憩所としての値打ちがあるのです。

御霊様と会うためには

愛する人が亡くなることは、

生きている者の心情としてはこれ程つらいことはなく、これ程淋しいことはない。

一体、何がこれほどつらく、淋しい想いを引き起こすのかと言えば、

それは『もう二度と会えない』と思うところにある。

もう二度と会えないのならば、いっそのこと自分も死んだ方がましだとさえ思われるのです。


一休禅師は亡くなる間際、このように遺しました。

死にはせね どこへも行かぬ ここに居る

たずねはするな ものはいわぬぞ


死んだからといって、どこへ行くわけでもない。

ほら、ちゃんとここに居るではないか。

目には見えなくとも、声は聞こえなくとも、

共にこの時を生きており、ここ(お前と一緒)にいるのだ、と。


本当に会うということは、相手が見えるかどうか、

相手と話すことが出来るかどうかではありません。

この世に生きて居りさえすれば

必ず会えるのかと言えばそうでもありません。

同じ家に毎日一緒に暮らしている家族であっても、

顔を見るのも嫌だと言い合っているようでは、

本当に会っているとは言えないでしょう。

本当に会うということは、「ひとつになる」ということです。


霊祭をするのでも、その祭りによって

本当に御霊様と一つになるということでなければ、祭りになりません。

喧嘩をしたり、不平不足を言っていてはお祭りにならず、弔いにもならない。

ましてや会えるはずがない。


亡くなられた方とでも本当に会える道がある。

一緒に暮らす道がある。

それが信心なのです。

一心に信心させて頂けば、今まで死んでいた者が、皆そこに生き返ることになる。


仕事をしているときも、台所に立っているときも、

いつもそこに一緒にいる。

寝入るときには傍で優しく見守り、

困った時には相談にも乗ってくれ、助けてもくれる。

御霊様に命を吹き込み、それだけのお働きをしてもらうには、

まずは自分自身が精一杯、前向きに

本気の毎日を送らせて頂くこと。

それはすなわち、毎日霊祭を行っていることになり、

御霊様とも一つとなった生活が送れるのです。

神様への預け入れ

スティーブン・コヴィー博士は、『7つの習慣』の中で

“信頼残高”という言葉を紹介しています。


銀行口座にお金の預け入れを重ねていけば残高はプラスになり、

引き出しをすればマイナスになるように、

人間関係にも信頼口座というものが存在すると博士は言います。


礼儀正しい行動、親切、正直、約束を守るなどの行動をすれば

信頼口座への預け入れ(プラス)となり、

逆に自分勝手な行動や振る舞いをすれば引き出し(マイナス)となります。


相手との信頼残高が高ければ、

こちらの多少の失言や失敗も許してくれ、

こちらの気持ちをしっかりと汲み取ってもくれる。

辛い時や悲しい時には傍にて、優しく慰めてくれるでしょう。

逆に残高が無ければ終始相手の顔色を伺いながら、

言葉を選んで話をしなければならなくなる。

陰口を言われることもあるでしょう。


まさに運勢は人が運んでくると言われるように、

自分の周囲の人々との仲がどれぐらい良いか。

そこにどれほどの深さがあり、強さがあるかということで、

私たちの運勢の良し悪しが決まり、幸も不幸も左右される。

ですから普段から周囲の人々との信頼口座に

継続的な預け入れをするよう心掛けねばなりません。


神様のお働き、神徳というものも同じことが言えます。

普段から神様との信頼口座に預け入れをさせて頂くことが

信心であり、幸福になる秘訣です。


お道の教えにこのようにあります。

『神を信じる者は多いが、神から信じられる者は少ない』


普段から「神様を信じている」と言っていても、

ただ神様にお願いしていることにとどまって、

神様に願っておけばやがては

神様からプレゼントが届くことを心待ちにしている信心が大半であります。


自分が神様を使うのではなく、

神様に自分が使って頂くことが大切であり、

そこではじめて預け入れとなる。


人を助ける神様の御用をさせて頂くと心に決めて、

自分の手足を通して、自分の生活を通して、

神様の生きておられる働きをさせて頂くことが、幸せな人生を約束してくれるのです。

梅の花のように

お道の教えに、このようにあります。

『桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。

 桜の花は早く散る。梅の花は苦労しているからすぐには散らない。』

梅の花は厳しい寒さの中を耐えてつぼみを付け、

長く咲き、素敵な香りを私たちに届けてくれます。

更に花が散った後には梅の実が残り、私たちの健康の役にも立ってくれる。


花も人も、厳しい状況を懸命に耐え、そして乗り越えていくところに、

真の喜びや生き甲斐が訪れるのではないでしょうか。


雨の日に、「今日が良い天気だったらなぁ…」と

今の天気を嘆いたところで成長はありませんし、幸せにもなれません。

雨の日には、快晴とは違った別の眺めがあり、趣がある。

雨が上がった後には、美しい虹が見えるかも知れないのです。


木の中にも、樹齢何百年という木がありますね。

長い歳月をかけてそこまでになり、もう押しも押されもせず、

風が吹こうが雨が降ろうがビクともしない。

今はただ、その木がそうして栄えているだけで、

その土地の品位を高め、周囲に人が集まり、神木と呼ばれて、

人から手を掌わせられたりもする。


 しかし考えてもみて下さい。そのような立派な木にも当然、

双葉の時期もあり、苗木の時期もあり、

若木の時期には僅かな風にも折れそうになり、日照りには枯れそうになり、

どうなるかと周囲から心配された時期もあったはずですが、

それを耐えに耐えたからこそ、ここまでの成長があり、今日を迎えているのです。

このことを考えると、私たちもこの自分自身をしっかりと育てさせて頂くことが大切だと思います。


仕事をさせて頂くのでも、難しい方を選択させて頂いて先に苦労させて頂きますと、

心も技術も鍛えられて、また有頂天になることもなく努力を続けることが出来るようになる。

結果として、先に楽を取るよりも、長く働かせて頂くことが出来るのです。 

梅の花のように長く咲いてお役に立つ様に、

それぞれに与えられた苦労をしっかりと味わい、精一杯勤めさせて頂きましょう。

その苦労は楽の種、幸せの種ともなるのですから。
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