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生きることと死ぬこと

お道の教えに、このようにあります。

『死ぬということは、もみを臼(うす)でひいた時、

 殻と実とが分かれるようなものであり、時が来れば魂と体とが分かれるのである。』


人は誰でも例外無く必ず死ぬ。

これほど確実なことはありません。

しかし、いつその時が訪れるのか、その長き短きは知る由もない。


ただ言えることは、人が死ぬということは、

その人として一度は必ず出逢わなければならないことに出逢われたということであります。


『殻と実とが分かれるように、時が来れば魂と体とが分かれる』というのは、

死は人生の最後に来るのではなく、最初から時々刻々、

常に生と離れずに付きまとっているということです。


私たちは日々生きていると思っており、

それは確かなことでしょうが、実は今日一日生きたということは、

今日一日死んだということに他なりません。


生命は一刻一刻死んでいるのであって、

それがすなわち生きているということなのです。

ですから、死の問題というものが生きることと別にあるわけではなく、

実はそれは生の問題であって、

本当によい生き方が出来れば、それが同時によい死に方にもなっているのです。


世間でよく、亡くなった人が「浮かんでいない」というのは、

その者が死に切れておらず、また生き切れてもいないために

その場にとどまっているのであり、

死ぬのも生きるのも同じことですから、

本当に生きれば、本当に死ねるということになる。


そこで、生きている私たちが亡くなられた人とひとつとなり、

共に生きていこうと願うなら、自分自身が本当に生き切ればよいのです。

日頃から不平不足を言っていては弔いにもならない。

御霊様と共に生きていけるはずがありません。


真のご供養とは、自分自身の心の成長を、

日々の生き方を通して御霊様にご覧にいれること。

それでこそ、お供えする一輪の花にも、その価値が出てくるのです。

天に貫き地に貫き、前向きに日々の生活を送る。

そのとき人は本当に生きたと言えるのであり、

亡くなられた方に対しては本当の弔いともなるのです。

祈りの中で

このお道の信心には「後ろ祈念」という言葉があります。

その名の通り、誰かの背中を祈らせて頂くこと。

学校へ行く我が子、会社へ行く夫の後ろ姿に合掌し、

お礼を申して無事を願うということであります。


合掌と言えば両手を合わせて頭を下げる。

形の上ではただそれだけのことでありますが、

単に社交で頭を下げる低頭や、手を握り合う握手とは違い、

相手の地位や身分を尊敬するのではありません。


そこに神様を拝む心、有り難いと感じる心があってはじめて合掌となる。

人の背中に合掌するということも、相手の中におられる神様を拝むことに他なりません。


「どうぞ、あなたの中の神様がお働き下さり、今日一日、幸せに過ごせますように」

と念じて、両手を合わせる。それが合掌するということなのです。


そのようにして、人の背中に手を合わせることが出来るようになると、

だんだんと自分自身も有り難い心持ちになってまいります。

何が有り難いかと言いますと、

自分も又同じように誰かに祈られてここまで来たのだ、

ということが分かってくる。

その祈りの中で「生かされて生きている」ことが実感出来るようになる。

そのことが大変有り難いのです。


お道の教えにこのようにあります。

『神に会おうと思えば、庭の外へ出て見よ。空が神、下が神。』


「神様を信じよ」と言われても信じるのは大変難しいことでしょう。

なぜ信じられないかと言えば、目には見えないものだからです。

目に見えないものは、いくら人から説明されても

やはり見えないものですから、疑えばキリがありません。


しかし、この世の実際は、

目に見えないものが、目に見えるものを支えています。

美しく咲く花も、目には見えない地の下の根が咲かせているのです。


たとえ目には見えなくとも、

私たちを助け、手を引いてくれる存在というのは、

実は私たちの周囲にたくさん在るのではないでしょうか。

祈りの中で生かさせて生きている。

私たちはその祈りに気付いていないだけなのです。

なんとかなる

一休禅師のエピソードに、このようなお話があります。

一休禅師は八十七歳という当時としては非常に高齢で亡くなられましたが、

その亡くなる直前に弟子たちに、

「この先、本当に困ることがあったら、これを開けなさい」と一通の封書を残されたそうです。


数年後、寺に大変な問題が持ち上り、

どうしようもないので、弟子たちは集まって、その封書を開いてみると、なんとそこには、

『心配するな

大丈夫

なんとかなる』


とだけ書かれていました。

とたんに弟子たち一同、大笑いの内に落ちつきと明るさを取戻し、

難しい問題を解決できた、という話です。

本当の話かどうかはさておき、一休禅師らしいユーモアたっぷりのお話であります。


人生には色々なことが起こります。嬉しいことも、辛いことも。

しかし、そのすべてが神様からのお差し向け、言わばプレゼントなのです。

途中で何があっても、後から振り返ってみると、

それは、それでよかったこと。いのちの糧となっていくのです。


お道の教えに、このようにあります。

『心配は体に毒、神様にご無礼である。

 心配する心を神様に預けて、信心する心になるがよい。』


何かできる時には、そのことを精一杯させて頂けばよいですが、

どうにもならないことを自分の力でどうにかしようと思うと、

解決がつかず、ますます苦しくなっていくものです。


ですから、どうにもならないことはまな板の上の鯉のように

自分を神様にすべて投げ出し、お任せする。

心配する心は神様に預けてしまいなさい、と教えているのです


そのように神様に任せきり、凝り固まった考えから放れることができれば、

物事は自然と好転していくものです。


心配するな、大丈夫、なんとかなる。

このことを忘れてはなりません。

聞くこと

「話すこと」と「聞くこと」とは、

まるで違うことのように思われるのですが、まことに通じるところがあります。


赤ん坊は生まれてすぐに話すことは出来ません。

声をあげて泣いてはおりますが、何を言っているのかは分からない。

母親だけは不思議とそれが何を言おうとしているのか分かるようですが、

それでも赤ん坊が話しているとは言えないでしょう。

それがいつの間にやら、皆にも分かることを話すようになる。


なぜ話せるようになるのかと言えば、

それは周囲の人の話をしっかりと聞いているからなのです。

人の話を聞いて、だんだんと分かるようになり、

それで、皆にも分かることを言うようになる。

聞くことなくして、話すことなど出来はしません。


耳の聞こえない方であっても、手や唇で話される。

それも同じことであって、耳で聞く代わりに目や体の一部から、

この天地自然、人の心を受け取っているのです。

その受け取るということがなければ、

自分の思いを表現でもって人に伝えることなど出来はしません。


ですから人が話をする時には、

日頃から心を込めて聞いて、相手の心を受け取っていなければなりません。


ただぼんやりと耳を向けている、心を込めて聞いていないようであっては、

自分が話すことも自分勝手でとりとめのない話しか出来ず、

その結果、誰も自分の話を聞いてくれないようになる。

これは当然のことなのです。


このお道は、「話を聞いて助かる道」と言います。

聞くという行為の中に徳が備わっていて、

そこに神様がお働き下さるのです。


愚痴や不足を聞くのは誰でも嫌なことでしょうが、

その時こそ相手の本音が出ているわけですから、

身を入れて本気で聞かせて頂き、その場限りで解消してしまいさえすれば、

「愚痴」と名をつけるまでもなく、

それは有り難い「打ち明け話」となるのです。 


聞き手が「うるさい、くだらない、聞きたくもない」とはねつけた瞬間に

その話には「愚痴」という名がつくのです。


聞くことに、どれだけ心を込めて聞くか。祈りを込めて聞くか。

ここが肝心であります。

仕事とは何か

中国の唐の時代に百丈(ひゃくじょう)という禅の高僧がおられました。

その教えで特筆すべきは、出家者にとって一番重要な修行を

「労働」としたところにあります。


禅が頭の中で考えるだけのものにならないようにと、

毎日の修行として、坐禅だけではなく労働を課したのです。

今でこそ、そのような労働は「作務(さむ)」として一般的ですが、

当時はそれまでの戒律に真っ向から相対するものでしたから、まさに命懸けです。


しかし、百丈はこの労働を自ら実践し続けました。

百丈にとってこの日々の労働とは、食べるための手段ではなく

仏の務めを作(な)すものでした。

そのため八十歳を過ぎても止めようとはしません。

やがて弟子たちは師匠の体を案じて「お休みになったらどうですか」と勧めましたが一向に止めない。

そこで弟子たちは苦肉の策として、百丈の仕事道具であった農具を隠してしまったのです。


道具を隠されて働くことができない百丈は、その日は部屋に戻りました。

弟子たちは「やれやれ、これでよかった」と安心していましたら、

今度は食事をしないと言い出すのです。

そして、驚き戸惑う弟子たちに向かい、「一日作さざれば一日食らわず」と。

一日仏のすべき務めができなけば、私は食べろと言われても頂戴できないのだ、

と諭したのです。


お道の教えにこのようにあります。

『神のおかげで生きていられる人間は、日々神のご用を勤めなければならない。

 日々勤める仕事は信心の行であるから、

 仕事をありがたく勤めれば、日々ありがたいおかげが受けられる』


ふつう信心といえば、宮、寺、お堂など特別な場所で、

特別な作法をもって特別なことをすることのように思われがちですが、実はそうではないのです。 

会社での勤めや、家事や育児といった日常の仕事の中にこそ信心の行があるのです。


他人に仕え、他人の幸せを追求していくことが、そのまま自分のためにもなるのです。

日本では昔から、「幸せ」という字を、仕え合う(「仕合せ」)と書きました。

つまり、人に仕えること、仕えようとする心を抜きにしては、

自分の幸せなど有り得ないということを教えているのです。
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